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司書   闇の狩猟場

──闇の狩猟場──


 封都アグナ・スネフの夜は、ここ数週間の間、完全な静寂に包まれている。

 真夜中に現れては道行く人を狩る、不気味な黒の影。それが原因だ。都の住民達はその影に怯え、家屋の鎧戸などはしっかりと閉じられている。

 今回受けた依頼はその影を崩滅させること。無事に狩ることができれば、冒険者としての名声は格段にあがることだろう。

 貴方は意を決し、深い闇が制するアグナ・スネフの都へと繰り出した。



 深夜のアグナ・スネフ。

 

 殆ど人通りも無く、空から降る月の光だけが街路を照らし、夜の闇をささやかに彩る。貴方はアグナ・スネフにある三つの大通りのうち、最も東側に近い位置に伸びるサザラナの通りを、周囲に気を配りながらゆっくりと歩いていた。

 ──と、その時。どこからか話し声が聞こえてくる。

「いやぁ、なんだか辛気臭い街だね、エニィ。まだ月があんなに高いのに、どこの店も開いてないというのだから」

「こんな時間では、普通はどこも店を開けてはいないと思うのですけれど」

「そうかね? 前にいたところでは──」

 街路の東沿いを北へ歩いていた貴方の右斜め前、道の西沿いを南へと歩く二人組。それがその声の主だった。

 黒の外套に片手に杖を携え、肩の高さ程度に髪を切りそろえた金髪の青年と、同じく黒を主体とした上着とスラックス、そして白のブラウスを合わせた髪の長い女性。どこにでも居るといえばどこにでも居るし、居ないといえば居ない。二人はそういう類の独特の雰囲気を持っていた。

 彼らはこちらの事に気づいた様子も無く、てくてくと街の外へ向かって歩いていく。

(──あの二人が、噂の黒い影、か?)

 いや、あれはどう見ても普通の人間だろう。どこぞの道楽貴族と、その連れ。そんなところだろうか。

「でも、なんかヘンな感じの連中だったね、今の」

 懐からひょいと顔を出したリトゥエが呟く。確かに少々気になるが……今は噂の影を追うのが先決だ。

 貴方はのんびりと街路の先へと消えていく二つの人影を見送った後、彼らとは反対方向へと歩き出した。



 夜が明けるまでアグナ・スネフの都を歩き回ってみたが、噂の黒の影とやらに出会うことは無かった。

 運と、そしてそういう超常的な存在を感じる感覚が足りないのだろうか。単なるタイミングの問題なのかもしれないが。

 仕方なく、今回はこれで引き揚げることにした。

司書   ビブリオティーク=ライブラリィ

──ビブリオティーク=ライブラリィ──


 封都アグナ・スネフの近傍に、不思議な図書館が姿を現したという。何人かの旅人や商人、冒険者達がそこに迷い込み、大陸西南部では殆ど見られない異国の書物や、現存すら疑わしい伝説の書物などを持ち帰ってきたという話だ。

 しかし、そこから都へと帰還した者達が示すその図書館の位置は、アグナ・スネフの近郊と言う共通点こそあるものの正確な位置自体は皆バラバラで、都の北東を指す者も居れば、真西だと言う者も居た。しかも、彼らが指定した場所へと向かっていった冒険者達は皆「そんな図書館など影も形も無かった」という。

 彼らの言う不思議な図書館とやらは、本当に実在するものなのだろうか。

 貴方はその図書館を求め、偶然辿り着いたという者達の話を参考に、アグナ・スネフ周辺を虱潰しに歩き回ってみる事にした。



 事前の情報を元に、図書館が出現したという幾つかのポイントを巡ってみるも、そのようなものは一向に見当たらない。

「やっぱり、デマだったんじゃないかなぁ……」

 【NAME】の頭の上からリトゥエが声を出す。確かに色々とアグナ・スネフの周囲を廻ってみたが、見つかる気配すらない。このまま探索を続けても無駄なような気がしてきた。

(帰る、か)

 思い、都へと続く街道を歩き出したその時、視界の片隅、何も無い空間に唐突な波紋が走る。

「なっ!?」

 驚きの声をあげる間もなく、その波紋はどんどんと激しくなる。波紋は広がり、空間を振動させる。辺りには筆舌に尽くし難い異音が木霊し、貴方は思わず両耳を抑える。そして次の瞬間、一際大きく空間が歪み──

 ──繻、と。

 周囲の景色を塗り潰すように、乳白色の巨大な建造物が姿を現した。



 建造物の正面に備え付けられていた巨大な扉を開き中へ入ると、そこは文字通りの書庫だった。

 しかしその規模は書庫という言葉で片付けられるものではない。仕切りの無い巨大な空間に数十メートルを越える棚が聳え、道は棚と棚との隙間にある横へ伸びる道と、その棚の端と端との間を利用して作られた、入り口から真正面へと縦に続く幅二メートル程の通路。

 内部は薄暗く、先は闇に閉ざされ果てが見えない。見たところ、少なくとも百メートル以上の広さをもっているようだった。


 周囲を見回しつつ、棚と棚との真中に設けられた通路を進んでいると、両脇に伸びる棚を順々に短くして円形の形を模したロビーがある。中央には大きなテーブルとそれを囲むように配置されたソファー。

 そしてそのソファーには、髪を肩の高さ程度に切りそろえた、品の良さそうな青年が一人、座っている。右手には小さなティーカップを、左手には厚革の書物を。視線は書物。こちらから見える表題部には「ゴールデンチェイン」とある。

 彼は【NAME】の姿に気づくと、手に持っていたティーカップをソーサーに置き、指先一つで軽く眼鏡の位置を直した。

「メリウスタワーへようこそ。僕はここの管理を任されているクリストファ、クリストファ・A・レネイルだ。そして彼女が助手の──と、おや、居ない」

 そこで言葉を止め、彼はきょろきょろと周囲を見渡し、

「エニィ、居るかい!」

 青年が奥に向かって伸びる書棚の一つに叫ぶ。

 すると書棚と書棚の隙間、薄い暗闇の中から、両手に何冊もの本を抱えた長い黒髪の女性が、何とも形容のし難い──まるで霧で作られた巨大な掌のようなものに乗って空中から現れる。

「は?」

「いや、お客さん。ほら自己紹介」

 訝しげな表情で首を傾げる彼女に、青年はくいと【NAME】の方を指差す。

「あ。はい。私、エウセニッティ・ランフォードと申します」

 すると彼女は途端に朗らかな笑顔を浮かべてこちらを見やると、軽く一礼。

「うん。で、ここは三千世界の英知が集うメイファリアの船。偶然訪れた者に只一つ、古の知識の結晶である書物を与える場所だ。ただ辿りついて書物に認められれば良いというだけで、過去の先人達が残した記憶を引き継げるというのだから、便利な話だね。僕もここの主になる前にこの船の存在を知っていれば、もっと色々楽できたって言うのに。ねぇ、エニィ?」

「うーん。働いていたのは私ばっかりだった気もしますけど」

「なかなか言うことキツいねぇ、エニィ」

 青年は苦笑しつつカップを手に取り、軽く中の液体に口をつけると、【NAME】の方へと視線を向け、告げる。

「それで、だ。とにかく君は何か一冊だけ、この図書館から本を持っていっても構わない。でも、君に本を選ぶ権利は無いんだ。本達が君を選ぶ。

 では君のために舞台を用意しよう。エニィ」

「はい」

 彼女は巨大な掌から本を抱えたままひらりと飛び降りると、青年の傍へと身を寄せる。青年は彼女を横抱きにすると、空いた片手にいつの間にか持っていた、双頭の蛇を模った杖で床を軽く叩いてみせた。


 環、と。


 ──響く心地よい快音と共に、周りを囲んでいた書棚や眼前にあったテーブルにソファー、そして青年と女性の姿が一瞬にして掻き消えた。

「!?」

 と、床以外に何も無い空間へと放り出された貴方の前に、明らかに尋常ではない気配を纏った数冊の書物がふわりと出現する。

 そして、空中を頼りなげに揺れる書物の中から、無形とも有形とも知れぬ不気味な何かが吹き出し、【NAME】に向かって一斉に襲い掛かってくる!



battle
書庫を舞う妖書


 【NAME】は、何とか書物の化け物を撃退する事に成功した。

 すると、どこからか青年の声が響いてくる。

「お疲れ様。その本は君と共にあることを願い、君はそれに答えた。つまりはそういう事だ。

 さぁ、持っていくといい」

 彼の声が途絶えると同時、手の中に一冊の本が現れる。

 同時に、周りの景色が一瞬で暗転し──気づいた時にはアグナ・スネフへと至る街道の真中にぼんやりと立っていた。

 手の中には……先程の書物がある。

 どうやら夢ではないようだが──あの建造物、そしてあの青年と女性は一体何だったのか。首を捻る以外に無い。

司書   更なる闇の

──更なる闇の──


 封都アグナ・スネフの夜は、ここ数週間の間、完全な静寂に包まれている。

 真夜中に現れては道行く人を狩る、不気味な黒の影。それが原因だ。都の住民達はその影に怯え、家屋の鎧戸などはしっかりと閉じられている。

 今回受けた依頼はその影を崩滅させること──なのだが。



「そろそろ、この依頼も打ち切られるかもしれません」

 依頼を受ける際に顔を合わせた、斡旋公社の窓口担当者の渋い声を思い出す。

「いやね。この件、当初は住民の噂ばかりが先行していて、被害の報告みたいなものは一切出ていませんでね。力の弱い妖魔か陰性の化生かが街に入り込んで来たんじゃないかってことで、その程度の事なら軍の方の手を煩わす程でも無いだろうと、ウチの公社の方に廻されてきてたんですが……」

 担当の男はぼりぼりと頭髪の薄くなっている頭を掻く。

「実はこの依頼を受けた後に夜の街に出没する影の化物と戦い、そして無事に勝利した方々はそれなりにいらっしゃいます。ですが彼等から頂いた報告は、貴方のモノも含めてそのどれもが、影に勝利はすれども完全に消滅させるには至らなかったというものばかりでして。更には最近、この依頼を受けて夜の街を巡回していた方達が、逆に返り討ちにされるケースが増えてきてるんですよ」

 つまり状況が変わってきた、という事だろうか。それも、以前よりも悪い方向に。

 そんな貴方の呟きに、男は小さく肩を竦めて頷いた。

「ええ。それで施療院送りになったその人達から色々と話を伺ってきたんですが……どうも街に現れる影の力と数が、以前より増して来ているようなんですよ。彼等が言うには、何か囁きのような声が聞こえて、その後にいつもとは異なる数と強さを持った影が溢れ出てきたとかどうとか」

 曖昧に言って、彼は手にした資料の束をぺらぺらと捲る。

「それに、能動的に影に対して仕掛けた者達以外の──単なる住民の方々からの被害報告の方が、最近ぽつぽつと上がってきてまして。この件は、なんせ封都内で発生してる事件ですからね。治安の問題もありますから、そろそろ軍の衛士団の方々に頭を下げに行く頃合かなと。ウチの面子が丸つぶれもいい処ですが、解決を長引かせているこちらにも責があるのは確かですし、致し方ないというのがウチの上の者達の結論でして。……で、長々とお話しましたが、ウチが貴方に何を伝えたいのかと言いますと」

 のんびりとした調子ながらも一気にそこまで喋って、男はふうと息を付きつつ広げた資料をテーブルを使って纏めて揃えると、姿勢を正して貴方を見る。

「お気をつけなさい。この事件は、単なる冒険者が解決できる範疇を逸脱しつつあるかもしれません」



 都の三方。東のサザラナ、南のヨートルダ、西のイミルセの通りを一通り巡回し終えた貴方は、アグナ・スネフの中心部にある景観美しい公園、コリィソーンへと軽い休憩を取るべく脚を運んだのだが。

「…………」

 公園中央に配された、この場所の名の由来ともなった『コリィ・ソーンの乙女』と呼ばれる彫像。

 その影から、漆黒の塊が不気味に蠢いているのを見つけた。

 そして睨むような貴方の視線を感じ取ったかのように、濃い黒色の内側から、ずるり、と人の身体を模した影が這い出す。

 現れた影は、以前より自分が相手をしていたモノと大して変わりは無いように見える。

 僅かに安堵する貴方を余所に、空にある月の光を拒むその闇の存在は、ゆっくりと、しかし確実にこちらへと迫ってくる!



battle
真夜中の影


『────』

 何とかその黒の影を撃退する事に成功したが、完全に崩滅させる前に、その影は街の闇の中へと消えてしまった。

(……また、何時ものパターンか)

 貴方は舌打ちと共に武器を収める。力の弱まった形持つ影達は、一瞬で脇道の奥や壁の向こう、街路樹の影へと姿を移し、そして解けて消え去ってしまう。あと一歩踏み込めれば何とかなりそうなのだが、その一歩が果てしなく遠い。

 自分達だけでは、あの影を完全に狩ることは出来ないのだろうか。



 影も消えてしまった事だし、一先ず公社に引き揚げるべきか。それとも別の影を探索するべきか。

(そういえば……)

 先程現れた影が完全に消える間際、何か、小さな声が聞こえたような気がしたのだが。

 あれは何だったのかと、少しばかり首を傾げた貴方の耳に、


『────』


 届く、微かな声。

 それは嘆くような、呼ぶような、悲しむような、乞うような。

 何とも表現できぬ、しかし陰と何かを求めるような囁きが、微かに。

 耳ではなく、心で聞くような微かさで漂っている。

「……これは」

 今戦った影に関わるもの、なのだろうか。

 その推測には何の根拠も無いが、影と声。その二つは『異常な現象』という括りで云えば同じものだ。このタイミングで響く、というなら無関係ではない、と思いたい。

「…………」

 動きを止め、息を潜める。

 もう一度、もう一度聞こえてこないものか。気を張り詰めている今ならば、その出所を掴む自信はあるのだが。

 一分、二分、三分と、物音一つせぬ夜の街中を時が過ぎる。

(これは、駄目か)

 思い、集中していた意識を緩めかけたその時。


『────』


 響いてきた声無き声。

 そして──掴んだ。






 最後に聞こえた囁きが指し示したのは、比較的昔に建てられた家屋が並ぶ住宅地の一角。建造物と建造物の間を通るその路地は、背の高い左右の建物に月光を遮られ、深い深い夜の闇に閉ざされている。

 路地の手前で一度立ち止まった貴方は、その内を覗き込みつつ僅かに逡巡する。先程までの流れだと、声の響いてきた方角へと向かっていると、高確率であの形持つ影の化け物と遭遇していた。となると、今回もあの影と出くわす可能性が高い訳だが、この細く暗い路地の中でもしあの化け物に襲われた場合、この濃い闇に覆われた路地での戦闘となればかなりの不利となる。

 ──が、ここで引き下がるというのも締まらない話。

 確かに不利ではあるが、あの影に対抗する術は既に揃えてある。そうでなければ、あの影と幾度も戦って無事にここまで辿り着ける筈も無い。奴等の攻撃は闇に纏わる力が殆ど。それに抗する手段を事前に整えておけば、悠々退ける事が出来る相手だ。

(……行ける、筈だ)

 内心の呟きに答えるように、街路の奥からあの囁きが耳に届く。響く声は今までよりもはっきりと届き、注意深く聴けば何かを言っているのかも聞き取れるかもしれない程の明瞭さ。

 この奥に、声の主が居る。そう判断して間違いないだろう。

 貴方は一度大きく深呼吸した後、闇に閉ざされた街路の奥へと飛び込んだ。



 街路に踏み込んで十数歩も進まぬ内に、貴方は眼の前に広がった光景に足を止め、茫然と見入る事となった。



『影のこの子は悲しいこの子』


『踊る世の日にひとりぼっち』



 暗色の闇の中。

 乳白色の寝巻きを着込んだ一人の少女が、辺りの闇に抱かれるように佇んでいる。

 少女の身体は僅かに地面から離れており、足許には一冊の本が開かれていた。厚みはそれ程でもないものの大判ではあるその本は、誰の手も介さずに凄まじい勢いで右へ左へとページが捲られて、その隙間から吐き出された紙片が、少女の周囲を縦横無尽に飛び回っている。



『皆が輪の外、光の向こうで』


『誰とも踊れず眺めたたずむ』


『影のこの子は寂しいこの子』



 幼い少女の囁き声が、闇の中に木霊する。

「…………」

 何なんだ、これは。

 眼の前で渦巻く紙片の吹雪とその中央に浮ぶ少女の姿を、貴方は唖然と眺めるしかできない。

 ──正に、ここは異界だった。



『そんな影の子に彼女が一人』


『影の子を知り、手を伸ばす』



 歌う、歌う。

 何も写さぬ焦点の合わない両眼が、貴方を通り越してただ虚空を見る。

 薄く開かれ、その端からは僅かに唾液の伝う唇が、細く掠れた歌を呟く。



『影のこの子は喜び手を取り』


『彼女を引き寄せ踊りへ誘う』



 少女の両手が、まるで操りの糸に引かれたかのようなぎこちなさで左右へと伸びた。

 同時、彼女の回りで渦を巻いていた紙片が、ぴたりと空中で動きを止める。

 闇色の中に縫い止められたように停止した白い紙の群れ。その紙の中心に、周りを埋める闇よりも更に濃い、正に漆黒と表現すべき色が生まれ、そして次の瞬間。



『皆が作り出す光の輪で無く』


『暗く影夜のみが踊る輪へと』



 少女の足許で開いた書から、影色で形作られたヒトガタが音も無く飛び出した。今まで相対していた影の化け物とは比較にならない程の大きな影が、少女を背から覆うように立ち上がる。

「たす……て……らい……さむ……」

 その呟きだけは、少女の喉から発せられた、彼女だけが紡いだ言葉。

 だが最後まで声を発する事も出来ず。少女の周囲を覆う黒の塊が、足許の書物から涌き出た黒色の影と交じり合って彼女を覆い、今まで以上に巨大な影の化け物へと変化する。


 夜の色が泡立つ。

 街の狭間に開いた異界で、影統べる主が目を覚ます。



battle
大いなる影


 放った破壊の力が踊る影の肩部を打ち、豪快に吹き飛ばす。

(決まったか──!)

 武器を振り切った姿勢のまま、貴方は巨大な影の様子を見守る。

 が、削り取った影の一部に、周囲を未だ散っていた漆黒の紙片が張り付き、一瞬にしてその傷を修復──どころか、影の身を更に膨張させた。

 あの巨大な影の化け物の強さ自体は、何とか自分でも相手に出来る程のモノだ。

 だが、あの回復能力は戴けない。

 放つ技法によってどれだけ影を吹き飛ばそうとも、周囲を埋め尽くす闇が影の化け物に纏わりつき、その欠けた部分を補填してしまう。

 自分と化け物の強さがどうこうと言うより、あの影にとって明らかに有利なこの環境に問題があった。誘われて飛び込んだが故の不利ではあり、ある意味承知の上での結果と云えるが──このまま削り合っていては先にこちらの体力が尽きるのは明白だった。

(だが、どうする)

 退くか。しかし、退ける状況でもないだろう。この黒に埋め付くされた世界は恐らく結界の一種。巣に飛び込んだ獲物を簡単に逃すような仕組みになっているとはとても思えない。

 無数に生まれた影の手が貴方へと迫る。右、右、左、左上、真上と瞬く間に飛来する鋭い黒を寸での処で回避しながら、何か状況を打破するモノはないかと思考し、全く思いつかない事に愕然としかけたその時。


 上空から、一条の光が降った。


 しぃ、と何かが染みるような音が街路を埋め尽くし、天地全てが黒の闇に閉ざされていた異界が、単なる夜の街路へと変化する。

(な……んだ?)

 闇に慣れていた眼が一瞬眩み、光量を押さえようと反射的に目を細める。暈けた視界で、貴方は突然のこの状況を把握しようと努める。

 まず、差し込んだ光。

 これの正体は空を見上げれば直ぐに判った。


 月だ。


 建物と建物の間から顔を出した月の円。そこから降り注ぐ冴えた輝きが、街路を覆っていた闇の領域を一瞬にして払ったのだ。

『────!』

 場には無音の叫びが響いている。

 月が生み出す光を浴びて、先程までは無尽蔵とも思える濃い黒でその身を為していた影が、先端から燃える様に砕けて小さくなっていく。砕けた闇は破り千切られた紙片の姿へと戻り、その紙片も僅かに空中を漂う間もなく、まるで初めから存在していなかったかのように薄れ擦れて空間に融けて消えていった。

 そして断末魔とも云える声を上げながらのたうつ影は、突然ぴたりと動きを止めて。

 一拍の間の後。瞬く隙も無い程の速度で、石畳の上に広がっていた書物の中へと引っ込んだ。

 更に影を完全に内に飲み込んだ本は、独りでにぱたんと音を立てて閉じると、貴方が何かの行動を取る間もなく、石畳の床に沈むように消滅。同時に、路地を埋めていたあの濃い影の気配が完全に消え去った。



「…………」

 貴方は茫然と立ち尽くす。

 路地に光が差し込んでから僅か十秒も掛からぬ内に、正に異界と表現すべき空間が、単なる細い夜の街路へと変化してしまった。

「……はぁ」

 取り敢えずの危機は去った、訳か。貴方は詰めていた息を吐き出し、肩の力を抜いて近くの壁に背を預けた。

 幾度かの荒い呼吸の後、そこで漸く頭が回り始める。


 夜の街に響く奇妙な声。

 そして声の主を追い飛び込んだ路地で出くわした、奇妙な本と少女。

 更に、その書から飛び出した、今までの影の化け物よりも明らかに格の違う影の存在。


(あれが、公社の人間が言っていた『異なる強さを持った影』だろうか)

 しかし、事前に聞いていた話で持っていた印象と比べ、ずっと異質な感じだった。

 それにあの少女と書については、公社の者は話してなかったような気がする。もし先刻自分が見た光景を、この依頼を受けた他の冒険者も出くわしていたのならば、必ず公社の者に報告していただろう。それだけ異常で、奇妙で、印象に残る光景だった。

 なのに、公社の者があの少女と本についての情報をこちらに話してこなかったという事は。

(公社が情報を止めている可能性──は、無いな)

 公社の視点で考えるならば、この事件は出来るならば軍の手を煩わせる前に公社の手で解決したい筈だ。情報を出し惜しみする余裕はないだろう。

(……ならば)

 彼女に出くわしたのは、自分が初めてである、という事か。



 ──結局。

 あの少女と書物、そして影の化け物は一体何だったのだろうか。

 

 街路を抜けて、封都を通る三本の大通りの一つに出つつぼんやりと考えるが、今手元にある情報ではたいした推測もできない。

 まぁ、どちらにしろあの少女と影を飲み込んだ本は貴方が止める間もなく消え去ってしまった。もし何かの秘密があったとしても、もう手は届かない。疑問は尽きないが、また別の機会がもしあるのなら、その時には何とか逃げられぬように努力してみる事にしよう。

 そんな事を考えながら、貴方は今回の顛末について公社に説明する為、影達の踊りが一先ず収まった夜の街を、ゆっくりと歩いていった。

司書   軽やかなる四肢

──軽やかなる四肢──


 封都アグナ・スネフの夜に現れ、徘徊する影の群れ。

 その目撃例は更に増えて街人達の間にも噂は広がり、日の暮れたアグナ・スネフの都を歩く人影は皆無に近くなっている。

 そんな夜の街を、斡旋公社での手続きを済ませた貴方は黙々と歩いていた。


 ──思うのは、以前出くわした少女と書物。そして巨大な影の存在。


 あれがこの事件の根元に関わるモノであるのかどうか。

 それすらも未だはっきりとしないが、しかし徐々に増え始めている影の存在は、既に一部の者だけが知る静かな脅威ではなくなっており、解決の為の手掛かりが他に何も無いとなれば、後はもうあの巨大な影を再度追うしかない。

 貴方の報告以後、斡旋公社の依頼を受けて深夜のアグナ・スネフを巡回していた者達の中にも、巨大な影に遭遇した者達が居たらしいが、その殆どは今も施療院の世話になっており、行方不明になった者も少なからず存在するらしい。お陰で依頼を受ける冒険者の数も減り、公社も以前聞いた話の通り、軍の方へと話を通し始めているという。

 ──果たして、この件にこれ以上固執する必要はあるのか。

 そんな事が脳裏を過ぎるが、しかしここまで関わっておいて途中で放り出すというのはどうも据わりが悪かった。その原因は恐らく、あの影と書物の存在が齎す好奇心故だろう。


 街を徘徊する謎の影達。

 自分は、その正体を己が眼で確かめたいのだ。


 自身の意思を改めて確認しつつ、貴方はいつに無く濃い闇に閉ざされた夜の都を歩く。

 今日は新月であるらしく、そろそろ真夜中になろうかという夜の空に月の姿は見えない。

 星の光すらもか細い空の中。

 濃く伸びた雲の群れだけが、ただ静かに貴方を見下ろしていた。



 その変化は唐突だった。

 都を歩き始めて一時間程過ぎた頃。ヨートルダの大通りから脇道を抜け、そろそろコリィソーンの公園が見えようかという位置に来た辺りで。

 

 ずるり、と。

 

 何の前触れも無く、街全体を包む雰囲気のようなモノが音も無く、しかし明確にズレるのを肌で感じ取る。

「────」

 その異様さに貴方は立ち止まり、知らず息を呑んだ。

 時刻は深夜、それに影の噂もある。元々街路に人通りは殆ど無かった。

 だが、起きているかどうかは兎も角として、建物の中などには人がしっかりと存在している気配だけは感じ取れていた。

 しかし、今は違う。

 街全体──少なくとも貴方が眼に見て、感じ取れる範囲の中から、人の気配が全くと言って良いほど消滅している。映る景色自体はつい数瞬前と全く同じだ。なのに、漂う気配だけが明確に異なっているのだ。

(それに、この気配は)

 濃さ自体は異なるが、この気配は以前巨大な影に出くわした時と同種のモノだった。

 あの視線すらも遮るかという濃厚な気配が薄まり広がって、都全体を覆い尽くしているような、そんな感触。

「…………」

 一つ息をついた後。

 貴方は己が武器を手に取ると、用心深く周囲を見渡す。

 眼に止まったのは一軒の民家。丁度こちら側に向かって窓がせり出しており、中が覗き見える位置になっていたのだが──中は常では考えられない程の濃い黒に覆われており、その濃度は視線を通す通さない以前の問題で、まるで窓に沿って黒い壁が立っているかのようだった。近づいてみても中を見通す事は出来ず、まるで窓枠より内側が存在しないかのような黒色。いっそ窓から中へと身を乗り出してみるかとも考えたが、何だかそのまま中の暗闇に取り込まれそうな気がして、貴方は僅かに頭を振って身を離す。このどこか妄想めいた予感も、この状況では笑い話にならない。

 しかし、これはどうしたものだろうか。

 貴方は持った武器を軽く手の中で遊ばせてから、再度ぐるりと視線を廻す。

 何が契機となったのかはさっぱりだが、どうも今自分が居るこの都は何時ものアグナ・スネフでは無いらしい。ないらしいのだが……これは都がこの影により変質しているのか、それとも自分が何らかの魔術的な攻撃を受けて幻を見せられているのか。

「……いや」

 都が変質したわけでも、自分が幻を見ているでもないような気がする。

 最初に感じた「ズレる」というのが一番適切に思える。常とは僅かに異なる相に見るもの全てがズレたような感触。自分が普段見て聞いて感じているモノから一段階何処かへとズレた世界が、今この眼の前に広がる都の光景であるように思えた。


 ──そしてこの世界の住人とは、恐らく。

 街に立ち並ぶ建造物の陰という陰からゆっくりと這い出し、動き始めた本体を持たぬ影だけの人の形。彼等こそが、この闇に包まれた生気無き都の主であるのだろう。

 街路樹の合間、建物の壁横、軒下の闇、細い路地の向こうから。

 次々と姿を現した影の化け物達は、この世界においては明らかに異端の存在である貴方を排除するため、その身を音も無く滑らせながら迫ってくる!



battle
更なる影の紙片


「手応えが──」

 無さ過ぎる。

 打ち込みの姿勢のまま貴方は呟き、内心の舌打ちと共に影の脇を潜るように斜め前へと転がった。

 影が放ってきた力の波動がその背を掠める。衣服の裾を僅かに撫でていく感覚が生々しい。

 一度回転してから速度を殺さず立ち上がり、そのまま大きく前へと駆けて距離を取りながら考える。

 渾身の攻撃を叩き込んだ筈が、結果は化け物の身体を構成する影の一片を削り取れるか取れないかといったレベル。相手の攻撃手段に変わりは無いが、兎に角こちらの攻撃が通らない。これでは影を崩滅させるどころか、怯ませ追い払う事すらも手間だ。

 襲い掛かってきた影三体の包囲を今の行動で何とか脱し、更に四方から迫る他の影達の隙間を縫うように走る。

 ──しかしこの数と、そしてこの堅さは想定外だ。

 まだ、こちらの攻撃が相手に通じるのならば『戦う』という選択肢も取れるのだが、あの手応えでは一つの影を相手している間に、残る七方から別の影に襲われかねない。そうなれば一溜まりも無いだろう。

 拙い状況であると、そう言わざるを得ない。

 事件の解決どころの話ではなく、このままでは自分の命すら怪しい。

(……兎に角、これは)

 影が倒せないとなると、あとはもう逃げるしかない。貴方は後ろから追ってくる影達の様子を一瞥した後、更に走る速度を上げる。

 だが、どこまで逃げれば良いのか? 少なくとも、今視界の映る範囲内で安全と思われる場所は無い。あらゆる場所に伸びる影はそれぞれに蠢き、その内側から形持つ何かが今にも這い出してきそうだ。

 これはもう、一気に都の外まで走りきるしかないか。そう気を引き締めたその時。


『────』


 遠く都の向こうから、女の声のようなものが聞こえた気がした。

「…………」

 どうする。走る速度は緩めぬまま、貴方は迷う。

 今日出向いた目的は、あの少女と書物から生まれた巨大な影に迫る為。今、自分の耳に届いた声は恐らく女性のモノで、前回遭遇した時の前触れとして響いていた声も同じく女性の、正確には少女の声音だった。

 となれば、声の在り処を追えばもう一度あの巨大な影に遭遇できる可能性もある。

 それがこの状況を打破する要因と成り得るかもしれないが──しかし、今日現れる影の化け物の堅さは異常だ。もし遭遇し、あの巨大な影も同様に性質が変化していた場合、より状況が悪化する事も考えられる。恐らく、逃げることも難しいだろう。


 ここはやはり声がした方へと向かうべきか?

 それとも、正に虎穴へ飛び込む事が如き迂闊な行動を避け、都からの脱出を優先すべきか?





 あの声を追いかけよう。

 そう決めた貴方は、脇道や壁の影などから現れる影の化け物を警戒しつつ、意識の一部を己の耳に集中させる。

 先程響いた声は至極小さく、殆ど聞き取れなかった。なので、追うならばもう一度声が響いてくるのを待ち、そして響いた声を逃さず捉え、聴こえてきた方角程度は割り出す必要があるからだ。

 視界の片隅、左手側に延びていた影が僅かに蠢いているのに気づき、一瞬の躊躇の後、逆に速度を上げた。影の傍をすり抜ける際に伸びてきた黒色の手を身を低くする動作で躱すと、そのまま一気に振り切る。

 ちらりと背後を振り向けば、自分を追う影の化け物達の数は既にかなりの数となっていた。恐らく一度立ち止まってしまえば迫る影の大群にすぐさま追いつかれ、包まれて──その先がどうなるのか考えたくも無い。

(だから、早く)

 一刻も早くもう一度あの声が響いてくる事を祈る、とその時。


「────ぁあ!!」


(聴こえた! ……が?)

 心の内で喝采を上げて、そして一瞬の間を置いて首を傾げる。

 どうも先刻の声とは質が異なる気がするのだ。前に聞いた声はどちらかというと陰性の気に満ちた囁きのような声だったが、今響いてきたのは強い生気の込められた気合の声だった。

 ──どういう事か。

 訝しく思うが、しかし悩んでいる状況ではないのは確かだった。こうしている間にも追い縋る影の数は増して、状況は刻一刻と悪化している。兎に角、声の響いてきた方向だけは何とか掴めた。

 今居る場所が都の南西付近として、声が響いてきたのは北東方向。つまりコリィソーン噴水公園のある方角だ。

 貴方は眼前に現れた三叉の分岐から右手──北東の方角へと続く道を選ぶ。道の中央でウロウロと身体をふらつかせていた影の化け物を、放った技法の一撃で僅かに押し退けてその隙をすり抜けた。

 

 新月の夜。夜明けはまだ遠く、都に生まれる影の化け物の数はどんどんと増してきている。

 この調子で増加していけば、朝が来る前に都中が彼等で埋め尽くされそうであるが、そもそも朝というものがやってくるのかどうか。

 それすらも不安になる程に、都を包む空気は異質なものだった。



 細い裏道を抜け、大通りを横切り、時には塀さえも乗り越えて貴方は走る。

 一瞬たりとも立ち止まれないというのは中々難しい話だ。道の選択すらも迷う間は然程無い。それに体力の消耗もかなりのもの。このまま走り、辿り着いた先に何があるのかもはっきりしない状況では無駄な体力の消費は避けたい所だが、そうも言ってはいられない。

 左右に分かれる分岐点を左へ曲がり、正面から現れた多数の影の存在に立ち止まりかけて、直ぐ傍に脇道の存在がある事に気づいて慌てて飛び込む。

 幅は人一人が両手を広げる間すらもあるかどうか。この道を抜ける間に、前から影の化け物が現れたならば逃げ場は無い。祈りながら細道を駆け抜けて、僅かに広い通りに出ることに成功して安堵の息をつく。だが、貴方が抜けた細道からはずりずりと影の塊が沸き出て、更には通りの片側からも別の影の集団が姿を現し、状況は更に混沌となる。

 通りを比較的影の数が薄い北側へと駆ければ、左手へと折れる角が見えた。

 ここを曲がればそろそろコリィソーンへと辿り着く。いい加減、あの声が響いてきた辺りに近づいている筈だが──そう考えながら速度を殺さずに曲がり角へと入り、


 驚きに思考が固まる。

 角の向こうから飛び出すように、別の人影が貴方の眼前へと飛び出してきたのだ。

(な──くッ!)

 敵か、と思う間もなく、影の右の手がこちらに向かって伸びてくる。

 貴方も反射的に武器を影の頭部へと向けて振り下ろし、敵の手がこちらへ届いてくる前に一撃を加えようとして。

 ──お互い、己の一撃を相手に打ち込む直前で硬直した。

「……て、あら?」

 相手はこちらの顔をみて驚きの声を洩らし、貴方も同様に眼を見開く。

 角の陰から飛び出してきた人影は、あの影の化け物ではなく、ごく普通の人の姿をしていたのだ。

 すらりとした造りの黒と白で整えられた衣服に身を包み、長い黒髪で身を飾ったその女性は唖然とこちらを見て、

「どうして、この場所にヒトが……?」

 貴方の顔面手前で拳を止めたままぽかんと呟く。そして、そのまま貴方の背後へと視線をズラすと僅かに息を呑んだ。

「──あなた、後ろ! 退きなさい!」

 叫び、女は一度拳を引いて大きく足を開くと左手を前に、突き出していた右の拳を後ろへ溜めるように構える。

 彼女が何をするつもりなのか判らないが、しかしその「後ろ」という言葉が示す意味だけは判る。

 彼女との相対のために足を止めた分、後方から追い縋っていた影の大群との距離が詰まったという事だろう。

 恐る恐る背後を振り向けば、多少は振り切ったというのに凄まじい程の数の影が、うようよと石畳の道を滑る様にこちらに迫っていた。

「うあ」

 あまりの光景に思わず情けない声が漏れる。

(これは、流石に駄目か)

 思わず浮んだ、そんな諦めの考えを振り払うように、

「早く! 右か左か、どっちでもいいから退いて!」

 女の、強い力を込めた声が貴方を打った。

 声が秘める意気に気圧されるように、貴方は数歩横へと身体をふらつかせた。

 その行動によって生まれた隙間に向けて、娘が僅かに左足を前へとずらすと、腰と肩を順に回転させて勢い良く右の拳を虚空へと放った。


「──はぁあああああ!!」


 裂帛の気合と共に突き出された彼女の右の手から、人の身長を遥かに上回る程の巨大な拳が唐突に生まれ、鋭い突きの勢いそのままに、迫る影の大群へと向けて打ち出される。

 街路一杯まで広がり突き進む幻の拳は、今まで貴方がどれだけ技法を放っても殆ど傷つく事の無かった影の化け物達を易々と捉え、まるで嵐に巻き込まれた木屑のような圧倒的な力の差でもって叩き潰していく。

 彼女の拳から打ち出された力は街路の遥か果て、視線も届かなくなる程の位置にまで飛ぶと、緩やかにカーブしていた道の外壁にぶち当たり、凄まじい破裂と共に消滅。

 後には、その拳風によって抉られた石畳と両の建造物の外壁。そして道の隅に寄り茫然とその様を眺めていた貴方と、未だ黒い輝きを放つ右手を突き出したままの姿勢で固まっていた娘だけが残された。

「……取り敢えず、何とかなったようですね」

 彼女は大きく息を吐くと、ゆっくりと構えを解く。身の内に溜めた力をその呼気に込めて吐き出したかの如く、実際に縮んだ訳でもないのに身体が一回り小さくなったように見える。

 そして未だ固まっている貴方の方へと視線を向けると、心底不思議そうな表情を浮かべた。

「それよりあなた、どうやってここに? ここは異相の地、何の縁もない普通の方が入り込めるような場所では」

 無い、と続けようとする彼女の背後に、二つの影がするりと。物陰より這い出てくるのが貴方の視界に入る。

(──拙い)

 彼女はこちらに気を向けていて、気づいていない。

 貴方は手にしたままだった武器を握り直すと、未だ言葉を続けようとしている女に警告の声を飛ばす。

「え? く──ッ」

 それを聞き、慌てて後方へと振り向く彼女を脇に押し、貴方は襲い掛かってきた影の化け物の攻撃を凌ぐ!



battle
更なる影の紙片


 化け物の初撃を武器で何とか受け流し、返す勢いで影に向かって技法を打ち込むが、効き目は薄い。

「振り払って! 私が何とかするから!」

 そこへ態勢を立て直して女からの鋭い声。

 巻きついてくる影の手に数度技法を放って何とか千切り、そのまま大きく跳び退った処を待っていたかのように、黒髪の女が影の懐へと一気に踏み込む。

「──破!」

 気合の声と共に打ち出された蹴りが、影の胴を容易く貫通。そして放った蹴りの勢いを殺さぬままに身体を旋回させ、もう一体の影も易々と両断した。

 身体を分断された影は、貴方の攻撃を受けたときのような凄まじい復元力を微塵も見せず、そのまま砕け、消滅していった。



 回した身の勢いに乗って乱れた長い髪を軽く払って纏めると、彼女は改めて吐息。

「ありがとう。助けたつもりが、直ぐに助け返されてしまったようですね」

 とはいえ、今の影も倒したのは自分ではなく彼女だ。これを助けたと言えるのかどうか。

「いえ。もし私があの『影夢』の一撃を受けていたなら昏倒は免れませんでしたから。先刻の状況は十分に助けられたと言って良い形です」

 貴方の呟きに、黒髪の女は丁寧に答えてくる。

 しかし……影、夢?

「はい、影夢です。書の巻き起こす夢から生まれる影の子だから影夢──それより、あなたはどうしてこの場所に? 先程も言いましたけど、この場は普通の人には入ってこれない筈なのですが」

 そう言われても、今日は単に都を巡回していただけで、特別何かおかしいことをした記憶はないのだが。

「巡回とはどうして。確か、夜には影夢が出るという噂が都中に広がっていて、わざわざ真夜中に外へ出ようとする人は居ないと聞いていたのですが。あなたは見た処、治安維持の組織に属している風ではないようですし」

 不思議そうに訊ねてくる彼女に、貴方はこちらの事情を簡単に話す。といっても、たいした事情がある訳でもない。単に公社の依頼を受けて影の化け物の正体と根絶を目指して街をうろついていただけの話。

 と、そこまで話してから、今眼の前に立つ黒髪の女についての疑問が今更湧いてでた。

 何故夜の都を歩き回っているのかという件に関しては、自分よりも彼女の方が余程理由が判らない。夜の都を一人身の女性がこうして歩き回るというのは無用心、

「に、見えました?」

 貴方の言葉尻を盗んでから、彼女は笑みと共に拳を軽く掲げてみせる。

 その仕草に、もう一つ。彼女の力の源にも疑問が生まれたが。

「その辺りは簡単な話なのですけど、それより──あなた、前に何処かでお会いした気がするんですけど、気のせいでしょうか?」

 は? と貴方は答え、暗がりの中、彼女の顔をよくよく眺めてみる。

「…………」

 暫くの間の後、貴方はぽんと手を打つ。

 以前、アグナ・スネフの近郊で、不思議な図書館が見つかったと言う噂が流れた事があった。それを確かめる為に赴いた先で出会った二人、金髪の青年と黒髪の娘。今眼の前に居る彼女は、その時の娘だ。

 確か、エウセニッティと言っていたか?

「ええ、それが私の名です。あなたは確か、メイファリアでお客様として会った人ですよね。どうも見覚えがあると思ったら」

 うんうん、と頷く彼女。

 まぁ、それは良いとして。まだ彼女が何者で、どういう理由でここに居るのかを聞いていないのだが。

 貴方がそう言うと、彼女はうーん? と首を傾げる。

「何者か、はそれで判りませんか? 私はあの船の司書を務めるクリスの助手、と言いますか小間使いに当たります。何故ここに居るかと言いますと……私の上司、でいいのでしょうか。彼がどうも近くの街の方で『力ある書』が開いている気配がすると言うものですから、その事前調査に来たんですけれど」

 力ある、書?

「はい。どうも、私達がこの辺りに来た拍子に目覚めてしまったのかなとクリスは言っていまして。取り敢えずどんな感じになってるのかの様子見にとやってきたのですが、ちょっと相をズラしてみたらドンピシャ大当たりといった感じで。完全に位相を切り取った独自の『夢』を作っていたみたいでしたから、一応中も確かめてみて、夢の根元の目星くらいはつけておこうって事でこうして中に入ったんですけれど、どうもはっきりしなくて。それで、わたしだけじゃダメそうだから一度脱出しようかと考えていた辺りで、こうしてあなたと出くわしたと。そんな流れです」

「…………」

 一気に喋るエウセニッティに、貴方は難しい顔で黙り込む。

 ──正直、何を言っているのかいまいち良く判らないのだが。

 真面目な顔でそう呟いた貴方に、彼女は困った顔。

「そうでしょうか? なら、どう言ったら判りやすいだろう。ええと──トンデモ超パワーを秘めていたアイテムが動き始めて、その力で特殊な異空間を作っちゃいました。中は影の化け物がウロウロ彷徨い歩く危ない場所で、私は様子を確かめにそこに入りました。異空間を作っている存在を探したけれど私の力では見つからなかった──こんな感じでしょうか?」

 なんだか一気に判りやすくなった気がする。

 ──て、異空間?

「月並みな言い方をすればそうなりますね。あなたも感じていたのではないでしょうか、ここは本来のアグナ・スネフではないと。人の気配とか全くしませんものね」

 それは確かに、都の様子が変化した当初から感じていた事だった。

 この街には生気がない。その代わりに影だけが存在し、全てを支配しているように見えた。

「因みに、本来のアグナ・スネフで出現していた影の化け物は、この位相から漏れ出たモノですね。力ある書といってもそう大したモノではありませんから、完全に相を切り出す事が出来ないのでしょう。……とはいえ」

 そこで言葉を切ると、彼女は訝しげに貴方を見る。

「だからと言って、相応の特殊な力を備えた存在以外が位相空間へと迷い込むというのは、そうそうある事ではないのですが……」

 と言われても、思い当たるような事は無い、ような気がするのだが。

 今回の事件についても、関わった件の話は全てし終えた。それ以上の情報は提供しようがない。

 肩を竦め答える貴方に、彼女はうーんと唸ってから一つ息を付く。

「そうですか。まぁ、私も所詮は御呼ばれの者ですから。そう詳しく空間や領域、世界境界についての知識がある訳じゃありませんし、今はそれはそれとして置いておくことにしまして……そろそろ払った影夢達がまた集まってきてるようですので、取り敢えず、行きましょうか?」

 エウセニッティはそう言って、視線を貴方の後ろへと移す。それに釣られて振り返れば、確かに街路の向こうからわさわさと影の化け物がこちらに向かって来ているのが見えた。

 しかし、行くって何処に行くのか。

「都の外、ですね。この位相は都を境として切り取られているようですから、都の外へと出れば現世界に復帰する筈です。私は今日はもう引き揚げるつもりですので、一緒に参りましょう」

 言われて、少し迷う。自分の目的はこの影の正体を突き止めること。彼女の話によれば、いまの状況はその正体へ一気に近づける位置にあるように思える。この好機を逃がして良いものだろうか?

 そんな貴方の躊躇を感じ取ったのか、彼女は小さく頭を振って真剣な声音で告げる。

「止めておきなさい。相応の準備を整えなければ夢の要は見つかるものではないし、ここは彼等の制する地。ただ迷い込んだだけのあなたでは、影に取り殺されるのがオチです。どうも、貴方は完全にこの夢の相に身をあわせている訳ではないようですから、無理はしない方が良いと思う。それにほら、もう……」

 彼女が指差す先では、影の化け物達がどんどんと数を増してこちらに迫ってきている。

(……ええい)

 結局、逃げるしかないのか。

「さぁ、急いで。私が殿について影を牽制しますから、貴方は進むルートの選択を」

 エウセニッティの促しの言葉に押し出されるようにして、貴方は舌打ちを一つ残しつつ夜の街をまた走り出した。





 都の外へと向かう貴方とエウセニッティに、次々と襲い掛かってくる影の群れ。まるでこの都から自分達が去るのを惜しむかのように、その影達は執拗に貴方達に追い縋ってくる。

 ──と、前方の街路からするりと複数の影の気配が涌き出てくる。

 影達はまだ完全に形を得てはいないものの、その数は多く、走りながらすり抜ける合間は見出せない。

(どうする……)

 判断に迷い、貴方の足が僅かに鈍る。その横を、長い黒髪がするりと追い抜いた。


「あまり迷っている暇はありません。兎に角立ち止まらぬよう、走り続ける事を第一にしてください!」

 声と共に彼女が右手を前へと打ち出すと、その拳風を模るかのように巨大な霧の手が生まれる。轟音と共に正面へと飛んだ幻の拳は、約五十歩程前方でゆっくりと形を得始めていた影の化け物達の中心に叩き込まれて破裂。化け物達を一気に消し飛ばす。

(……凄いな)

 その様を貴方は半ば呆れたように眺める。

 今夜自分達に襲い掛かってきている影の化け物達は、いつもと違って攻撃を加えてもさっぱり手応えが無く、貴方はもう倒す事は諦めて相手の攻撃を凌ぐ事に徹していた。

 だが共闘する黒髪の彼女は、自身の手足より繰り出される技と、それに乗って生まれる霧のような不思議な拳で、容易くその影達を制してしまっていた。

 正直、こんな技は今まで見たことも無い。

 飛ぶように駆けていく彼女の後を慌てて追いつつ、貴方がその事について話を振ってみると、

「今、そんな話してる場合じゃないと思うんですけど……」

 と、全く尤もな答えが返ってきた。

 それもそうか、と貴方は短く謝って話を切り上げようとしたが、しかしエニィは律儀に言葉を続けてくれた。

「別に私が際立って強くて、貴方が弱いわけじゃないんです。単なる相性の問題」

 相性?

「ええ、相性。私と私の使う力と、あの影と影の源となる力との相が良く似通ってるから、私の攻撃が良く通るんです。といっても、こちらの攻撃が通り易い分、影からの攻撃も私には凄く通り易いんで、先手取って全力で潰さないと私が逆にやられちゃうんですけど」

「…………」

 どうも、彼女の説明は判り難くて困る。

「まぁ、あまり深く考えないで、そういうものだと認識してもらえれば──ッ!? いけない、横!」

 唐突なエウセニッティの叫びに反応し左右に視線を送れば、道の両側、細い細い人一人すらも通り抜けられるか怪しい路地から、複数の影が顔を出している事に気づく。

 影は驚きに一瞬硬直した貴方とエウセニッティの隙を突くように瞬く間に展開。空中を音も無く滑って包囲を敷くと、その内側に立つ貴方達を押し潰すように襲い掛かってくる!



battle
更なる影の紙片達


 エウセニッティの一撃によって影の一角を切り崩し、その隙間を潜るようにして包囲を何とか脱する。

 しかし息をつく間の無く別の方角から新たな影が涌き出るのを感じ、貴方は舌打ちと共に街路を駆ける。全く、キリがないにも程がある。

「急いでください! あの姿無き者達は、今夜の獲物を私達と定めてる。今は無事に逃げ切る事だけを考えて!」

 僅かに後方、追い縋ってくる影の一体を裏拳一つで撃ち払ったエニィが、貴方に向けて声を放つ。その意気の強さに押されるように、貴方は走る速度をあげた。



 足を止めずに周囲を見回せば、夜の街路のあちこちから蠢く影が這い出す姿が映った。

 それらに鋭く視線を送りつつ辺りに漂う気配にも意識を払い、なるべく影の数が少なく、そして都の外へと向かうルートを模索する。

 幾つかの方角は影の気配があまりにも濃厚で、踏み込む事すら危険だろう。そちらに向かうのは自殺行為。行動の選択肢として選ぶべきものではない。

 ならば比較的影の密度が薄いと思われる方のうち──さて、どちらへと進むべきか。

 そこへ、後ろを警戒していたエウセニッティが前方を走る貴方のほうへと声を飛ばしてくる。

「移動はなるべく同じ方角へ。例えば北に進んでから南、では単に元の位置に戻っているだけですからご注意を!」





 追い縋る影達との戦闘を数度経て。

 貴方とエウセニッティは、漸く視界の果てに都の境界が見える距離までやってきていた。

「見えました、街の外です!」

 前方を塞いでいた影の一体を吹き飛ばしたエウセニッティが叫ぶ声に、側面からの襲撃を捌いていた貴方は、牽制目的の一撃から返って来る手応えの無さにげんなりしつつそちらを見て、思わず眉を顰める。

(何か……都の外まで景色がおかしいような)

 街並みを抜けた先に見える平原や森、遠くに見える山の陰すらも何処か奇妙な色に歪みくすんでいて、風景に生気というものが軒並み削げ落ちているように見えた。

 まさか都の外も、中同様の奇妙な調子になっているのではないだろうか。

 確かエウセニッティは「都の外まで出ればこの空間から脱出できる」と言っていた筈だが。

 反撃として飛んできた影達からの攻撃を躱して走り、僅かに先行していたエウセニッティに追いついた貴方は、未だ疲れを感じさせない表情で周囲を警戒しつつ駆ける彼女にその事を問うと、

「その辺りは大丈夫。信用してください」

 彼女は走りながらぽんと己の胸を叩いた。

「一応この世界に飛び込む前に、領域の大きさを調べてありますから。都の外の光景は簡単に言えば書割みたいなもの。この世界で形ある地形はアグナ・スネフの都までです。多分、所有者の意識の世界があまり広くないのかと」

 そう言って、エウセニッティは一人納得したように頷くのだが。貴方にしてみれば、唐突に「意識の世界」と言われても何が何やら判らない。

「ああ、と……ここは『力ある書』によって作られた架空の世界みたいなもので、あるものは幻──というのは言いすぎなんですけど、現世界とは切り離されたあってないようなものでして。『力ある書』が所有者を取り込んだ時に、自身が存在する世界の一部を切り出して転写した固有の世界を生み出すことは結構あるんですけど、その時に作り出される世界の広さが、書の力と所有者の世界に対する認識の広さによって変わってくるんです」

 どうにも雲を掴むような話である。

 という以前に、彼女の言う処の『力ある書』というものが実際にどういうものなのか詳しく聞いていないのだが。

 貴方が少々げんなりした顔を隣を走る黒髪の娘に向けると、

「それについては──ああ、あれですよ、ほら」

 ちょんちょん、とエウセニッティが前方を指差してみせた。彼女の仕草に釣られて貴方がそちらを見れば。

「…………」

 都の境界。

 堀に架かる小さな橋の上でふわりふわりと浮ぶのは、以前貴方が都の路地で遭遇したあの書物。

「あれが『力ある書』です。といっても、今そこに見えているのは本物ではなくてイメージみたいなものですけれど」

 浮遊する書がばらりと開き、その内側から這い出してくるのは前回と同じ巨大な影。その大きさは、少女と共に現れた時よりも更に巨大で、都の外へ続く道を完全に塞いでいた。

「それにしても、予想以上に好かれていますね、わたし達。都の噂を聞いている限りでは、人を積極的に喰らう類の物語、という風には感じなかったんですけれど。所持者の意思が反映されてるのかな……」

 エウセニッティは小さく首を傾げつつも、手を包む黒布の覆いを改めて嵌めなおす。

「とにかく、ここを脱出するにはやるしかないですね。後ろの方もそろそろ立て込んできたみたいですし」

 彼女の言葉に背後を振り返れば、自分達を追いかけてきていた影の化け物達の群れが、もうすぐ傍まで迫ってきているのが見えた。

「追いつかれる前に、都を出ます。──行きますよ!」

 告げて、長い黒髪を躍らせてエウセニッティが前へと飛び出す。

 貴方も武器を構え直すと、彼女のフォローをする為にその後を追った。



battle
大いなる影の紙片


 縦横無尽に放たれる、波打つ暗色の力。その合間をすり抜け、エウセニッティが影の懐へと飛び込む。

「──ッ!」

 鋭い呼気と共に、打ち出される左右の連撃。幻の拳が影の巨体を殴り、闇色の身体を削り取った。

 そして動きが鈍った影に対し、更に打ち上げるような蹴りが飛ぶ。

 影の化け物は勢い良く吹き飛び、遠く背の高い建物の一角に直撃。その身体は半ば砕けて、内部からは『核』となっているらしい書物の表紙がちらりと見えた。

(とどめ……行けるか!?)

 どうやらあの本が、化け物の要となっているらしい。それが露出している今ならば、自分の攻撃も通じるのではないか。そう考え、追撃の技法を放とうとする貴方だったが。

「ストップ!」

 と、後ろからエウセニッティに腕を掴まれた。

 振り返る貴方に、彼女は小さく頭を振る。

「先刻言った通り、あれは所詮幻ですから無理をしても仕方ないです。破壊すれば多少は本体にダメージが反映されるけど、それも大した効果はありません。それに」

 そう彼女が話す間に、後方からこちらを追ってきていた影の化け物達が書物の周りに取り付き、そんな彼等を飲み込んで巨大な影の化け物は一瞬にして元の姿を取り戻した。

「あんな調子ですし、相手にするだけ無駄です。さ、今のうちに外へ!」

 そのままエウセニッティに手を引かれ、貴方は掛けられた橋を渡り都の外へと向かう。

 そして橋の終端から一歩、外へと踏み出した瞬間。


 ずるり、と。

 微妙に何かがズレていた世界が、元の位置へと戻る音を聞いた気がした。



 茫然と、周囲を見回す。

 映るのは静かながらも人の気配を感じさせる、ごく自然な佇まいを見せる夜のアグナ・スネフと、柔らかな風の吹く平原の景色。

 先程までの異質な様子は欠片も無く、そして都の方で蠢いていた影の化け物の姿も、さっぱりと消え去っていた。

「……戻った、のか?」

「ええ」

 思わずの呟きに、貴方と同様に都の方へと振り返っていたエウセニッティが肯定の頷きを返す。

「原型の世界に復帰しました。先程まで居た世界自体は今も存在していますが、今日は気配が漏れ出している様子もありませんし、境を越えましたので大丈夫でしょう。──それで、ですね」

 彼女はそこで言葉を区切ると、貴方の方へと視線を移す。

「先刻は色々どたばたしていましたから横に置いていましたけれど……あなたはどうしてあの位相の空間に入ってこれたんでしょうね?」

 と言われても、自分でも判らないのだから答えようがない。

 それより、こちらの方にも聞きたいことが山ほどあった。どうも、彼女は自分よりも先程の影の存在に対し詳しい知識をもっているらしい。その知識があれば、事件の真相と解決に一気に近づけるだろう。貴方は勢い込んで彼女の方へと質問を浴びせようとして、

「……お待ちを。その事についてなのですが」

 取り敢えずこちらの話を先にさせてください、とエウセニッティは両手を前に出して貴方の発言を止めた。

「どういった理由かは知りませんし、それが先天的な物か後天的な物かも判りませんが、あなたはどうも『相を違えたモノ』に対する適応性が少なからずあるみたいですね。だから、あなたにこの件を任せてみようかと思うんですが──確か、あなたは影夢を追われているんですよね?」

 影夢、というのが先程の影の化け物を指すのであれば、答えは真だ。貴方が頷くと、彼女は少しばかり笑みを浮かべて言葉を続ける。

「なら、この場であれやこれやと長話するのもなんですので、少し時間を置いてからメイファリアの方まで来ていただけませんか? 貴方の適応性については、メイファリアにいるクリスならば詳しい事が判るかもしれませんし。影夢についても、彼から説明を受けた方が、より正しい知識を得られるでしょうから」

 そこまで言って、エウセニッティは浮かべていた笑みを疲れ混じりの力無い苦笑に変えた。

「……それに今日は流石に少しばかり疲れましたし、一度間を置いて休息を取りたいというのが本音でして。あなたの方はどうですか? お疲れではありません?」

 それについては貴方も同感だった。

 アグナ・スネフの斡旋公社を出てからあの奇妙な空間に取り込まれた後、今こうして都の外に辿り着くまでの間、殆ど立ち止まる事無く走り詰めだった。更にその間に幾度戦闘をこなしたか、もうはっきりとした数字も覚えていない程だ。ここから更にどこぞへと出向くというのは、正直体力が持たない。

「良かった。でしたら、今日の処は一先ずこれでお開きという事に致しましょう。メイファリアの場所については、ご存知ですよね?」

 問いに、貴方はその言葉が何を指しているのかを一瞬考え、あのアグナ・スネフの郊外に最近姿を現すという不思議な図書館の事かと結論づける。その正否についてを確かめれば、エウセニッティは、笑みと共に頷く。

「ええ、それで正解です。近郊の方まで来ていただければこちらで拾いますので、ご安心ください。では、また後日、メイファリアでお会いしましょう。──ええと」

 と、そこで彼女は言葉を区切り、困ったような表情で一拍。

「そういえばあなたのお名前、まだ聞いてませんでした」

 小さく舌を出すエウセニッティに苦笑しつつ、貴方は手短に名乗る。彼女は表情を改めてから貴方の言葉に逐一こくこくと頷き、

「……記憶しました。では、三千世界の英知が集うメイファリアの船、わたし達の勤め場たる『メリウスタワー』にてお待ちしていますね。【NAME】様」

 優雅に礼をしてから、黒髪の娘はそのまま郊外の方へと歩み去っていった。



「…………」



 そして彼女の背が見えなくなる頃には、既に空の果てが明るく輝いていた。

 夜は終わり、朝が来る。

 空の移り変わりと共に、アグナ・スネフの空気も徐々に目覚め始める。

「──くぁ、ふ」

 その様子を暫く眺めて、貴方は小さく欠伸をする。

 世界は朝を迎えたが、こちらの眠気は先程までの大立ち回りによる疲労も相まって、寧ろピークに達しつつある。

 さっさと宿に戻り、一眠りするとしよう。

司書   司書は示す

──アグナ・スネフ近郊──


 アグナ・スネフの郊外。

 以前、不思議な図書館が姿を現すと噂されていた場所へと貴方はやってきた。

 確か、エウセニッティは「近くに来たなら引き上げる」と言っていたが──しかし、何の合図も無く、時間も指定せずにこうしてやってきても大丈夫なのだろうか?

 そう思った処で、

「【NAME】様」

 背後に突然生まれた言葉と気配。声に答えて振り返れば、そこには黒と白の二色で統一された衣服に身を包んだ黒髪の女性、エウセニッティがにこやかに立っていた。

 それにしても、良いタイミングで現れるものだ。まさかここで自分をずっと待っていた訳でも無かろうに。

 そう言うと、彼女は小さく微笑む。

「ずっと待っていた、という程ではありませんけれど、ちゃんといらっしゃるかどうか確認はしていましたよ」

 それはまた、手間のかかる事を。

「いえ、それ程でも。メイファリアに辿り着ける適性のある方が近づいた場合に『何方かが来た』という事だけは船に備えた力で判りますので、その度にこうして確かめていただけですから。まぁ、そんな事より──」

 彼女が手を広げると同時、周囲の風景が揺らぎ、あの巨大な塔が姿を現す。

「ようこそ、メイファリアの船へ。クリスは既にエントランスで待っていますので、参りましょう」



 と言われて、乳白色の塔の中へと足を運んだ貴方は、

「…………」

 そのエントランス、段々の棚で造った円の中心に置かれたソファに座り、一人ぼんやりと待っていた。

 何故一人なのかというと、答えは単純。エウセニッティに連れられてここへとやってきたは良いが、そこで待っている筈のクリスの姿が無かったのだ。

 それに気づいたエウセニッティが慌てて彼を探しに何処かへ行ってしまい、結果、貴方はここに取り残される形となってしまった。

(どうしたものか)

 辺りをぐるりと見渡すと、あるのは端から端までみっしりと本が詰め込まれた棚だけ。眼の前のテーブルにも本が一冊、無造作に置かれている。暇つぶしに手にとってみるかとも考えたが、以前この図書館に訪れた時に書物の化け物と闘った事を思い出し、貴方は左右に首を振ってから改めてソファに身を埋めた。

 今は大人しくエウセニッティが戻ってくるのを待つとしよう。



 ──そして暫くの間の後。

 背の高い棚をひょいひょいと身軽に飛び越えて、エウセニッティが戻ってきた。

 結果はどうだったのかと彼女の方を見て、

「ごめんなさい」

 返ってきた第一声がそれだった。

 クリスを探しに出て行った彼女が謝ってくるという事は、つまり。

「ええと、あなたに色々な説明をする筈だったクリスが見つからなくて……」

 ……タイミングが悪かったのだろうか。

「いえ、さっきまでそこに居た、と言いますか、あなたを待っていたんですけれど。外に出たような気配はありませんから、船内には居ると思うのですが」

 そこまでいって彼女は僅かに首を傾げ、

「ねぇ、何処へ行ったか判りませんか?」

 と、エウセニッティは唐突に、無人の筈の向かいのソファへと声を飛ばした。

 一体誰に話し掛けているのか、と反射的にそちらへ視線を移した貴方は、

「────」

 ぽかん、と。

 テーブルを挟んだソファに座る、折り目正しい衣装に身を包んだ老紳士の姿を茫然と見た。

 目を瞬かせる。

 つい先程まで、ほんの数瞬前まで、そのソファの上には誰もいなかった筈だ。すぐ眼の前、腰をあげれば手も届く程の距離である。見誤るという事などあるまい。

 ならばこの老人は、先程エウセニッティが現れて、貴方が彼女の方へと視線を向けていた数秒とも言えぬ間に、こちらに一切気づかれる事無く眼前のソファに腰を降ろし、優雅に紅茶のカップを傾けていたというのか。

 そんな貴方の様子を一瞥して小さく笑みを見せた後、老人はエウセニッティの方へと視線を向ける。

「クリスが何処へ行ったか、か?」

 彼は手にしたカップで一度唇を湿らせると、視線で部屋の一方。乱立する本棚の合間を指し示す。

「ぬしがそこの御仁を出迎えに行っている間に、何やら忘れ物といってあちらに去っていったが」

 エウセニッティはそちらを見て、僅かに顔を顰めた。

「あっちは第十四区画──と言う事は、その奥の感知関係の器具用倉庫?」

「だろうな。単音二階位の妖書区画もあるが、あちらに用があったとは思えんし」

 老人は静かにそう言うと、手にしていたカップをテーブルの上へと戻す。その隣には、いつの間にか一冊の本が置かれ、開かれたままになっていた。

「…………」

 完全にこちらを置いてけぼりの会話に、貴方は口を挟むか挟むまいか逡巡。

「と、あ」

 そんなこちらの気まずい気配を察してくれたのか、エウセニッティが貴方を見て小さく言葉を詰まらせる。

「済みません、【NAME】様。こちらの方は、ええと、どう説明すればいいかな。私は黄金の御老人と呼んでるのですけれど」

「別にそれで構わんよ。お客人、【NAME】殿でしたかな。挨拶が遅れて申し訳ない。私はそこな本の『現身』──概念が安定した『力ある書』が、外の世界へ映し出す際に取る姿。以後宜しく」

 老人は開かれたままだった本をそのまま取り上げ、表紙をこちらへと見せる。表題部には『ゴールデンチェイン』と書かれていた。

 ……というか、『力ある書』だって?

「ええ。といっても、あのアグナ・スネフで影を生んでいる不安定なモノと違って、もう数段階先へと進んで、明確な『読み手』がなくとも完全に己の世界を確立させている本物の『力ある書』ですけどね。ゴールデンチェインは、紅茶の美味しい入れ方についての基本と応用が事細かに書かれた本でして」

 エウセニッティの言葉が終わる前に、貴方の傍、テーブルの上にことりと置かれるのは液体が並々と注がれたカップだ。

 いつのまに、と目を瞬かせて老人を見れば、彼はこちらに小さく片目を閉じてみせた。

 その仕草に促されるように紅茶に口をつければ、

「旨い」

 思わず、素直な声が出た。そんな貴方の様子を見て、エウセニッティが表情を綻ばせる。

「でしょう? 『力ある書物』の現身は本の世界を外に現す形ですから、御老人は紅茶を入れる達人なんです。……と、その辺りの話は、全部クリスにさせようと思っていたのですけれど──もう、【NAME】様が来るって行ってあるのになんで倉庫なんかに」

 は、と憤慨の表情で息を吐いた彼女に、老人がのんびりと声を出す。

「詳しくは知らぬが、客人の為に必要な物を取りにいったのではないかね。不完全な世界に飛び込んで根源の書を探すとなれば、相応の品がなければ辛いだろう」

「あ、それですか」

 なるほど、と手を打つエウセニッティ。が、直ぐに表情を険しくする。

「──って、あなたがここに居るなら、まさかクリスひとりで? 通り道に妖書区画があるから、それは」

「いや。私では妖書連中の相手は荷が重い故、代わりに『ふたりはなかよし』と『指輪物語』の三節目、あと『茨の園のお転婆姫』を護りに持っていったようだが」

 老人の最後の言葉に、エウセニッティの顔が完全な渋面となった。

「ふたなかさんに指輪の三なら安心ですけど……問題は姫、ですか」

「まあ、あの娘がおれば足止めは完璧であるしな。循環庫の扉を開けている間に妖書が紛れ込まぬよう、姫に境の守りを任せるつもりなのだろうが──」

 じろり、と老人がエウセニッティを見据え、

「ぬしが迎えに行くとなると、少々面倒な事になるやもしれんな」

「……ですよねぇ」

 エウセニッティは嘆息すると、長い髪を己の指でくるりと回して僅かばかりの沈黙。

 そして、小さく「よし!」と声を上げると、すっかり紅茶の虜になっていた貴方を真っ直ぐに見据え、

「【NAME】様、お客様にこんな事をお願いするのはとても心苦しいんですけれど、クリスを探すのを手伝って頂いて構いません? クリスは一人でああいった倉庫に出向くと、大体他の品に気を取られて中々出てこないんです。だから迎えに行かないといけないんですけれど、多分、私だけだと無駄に時間が掛かってしまって、凄く待たせる事になってしまいそうで」

 貴方は中身の空になったカップをテーブルに置いてから、彼女の言葉に一つの疑問を返す。

 今までの二人の会話で何となくどういう状況かは判ったが──自分がエウセニッティについていって、何か有利になる点があるのだろうか? 彼女等の言う『妖書』とやらが何なのかは判らないが、前回のアグナ・スネフで出会った『影夢』という奴等と同類ならば自分の力は殆ど役に立たないだろう。

 しかし、エウセニッティは小さく首を振る。

「いえ、戦闘面での話ではなくて……ちょっと説得と言いますか交渉と言いますか、そんなものの証明……材料として来て頂きたいと……」

 返ってきた答えは、「普通に戦いの手伝いをしてくれ」と言われるより躊躇してしまうような代物だった。

(とはいえ──)

 こちらが断ったせいで長引かれても困る。貴方は軽く頷き、ソファから立ち上がった。





──メリウスタワー・第十四区画──


 エントランスでティーカップを掲げる老人に見送られる形で、貴方とエウセニッティは常識では考えられぬ程の高さを持つ本棚の間を進み、細い通路へと入る。

 所々に無造作に積み上げられた本の山を横目に通路を進むと、大きく開け放たれた両開きの扉が見え、その奥に広がる部屋からはおどろおどろしい気配が通路の方へとなだれ込んでおり、更にその周りには不気味な気配を纏った書物がふらふらと漂っている。。

「ここから先が第十四区画です。まず妖書を収めた区画、大部屋がありまして、恐らくクリスが向かったと思われる器具関係区画に続く通路は、今いる場所の丁度反対側にあります」

 話しながら、エウセニッティは身に付けた黒革の手袋の具合を確かめるように引っ張っている。

(つまり、戦闘になるのか)

 あわせるように、貴方も武器を構える。しかし、前回アグナ・スネフで遭遇したタイプの『影夢』と同じような相手ならば、こちらの攻撃は微塵も通じないだろうが、

「大丈夫です」

 内心の不安を、エウセニッティは貴方に視線すら寄越さずに否定する。

「前回、影夢にあなたの攻撃が通じなかったのは、あなたが何の対策もせずにあの不完全な『力ある書』に取り込まれたから。『力ある書』が生み出す世界の中では独自の法則が働きますから、たとえ本来の世界でどれだけ強い力を得ていても、『力ある書』が生み出した世界に取り込まれてしまえば関係なくなってしまいます。ですが、あの妖書の類は、あの影夢を生んでいた『力ある書』よりも更にお粗末な物。自分の世界も満足に構築できず、ただ外の世界に何かを現す事だけに執着して、歪んだ形です」

 彼女の言葉を咀嚼し、一瞬。貴方は小さく頷く。

 つまり、今眼前に浮んでいる奇妙な本達には、自分の攻撃は通用する、ということか。

「正解です。以前ここにあなたがいらっしゃった時に戦った書物達とは存在としては近いですが、方向性が真逆の物達、と考えてもらえれば。……さて」

 呟き、エウセニッティの表情が硬く、視線も鋭くなる。

 そんな様子に動きを開始しようとする意思を感じ、貴方も僅かに腰を落とし、前方を見据えた。

「では、一気に妖書区画を突っ切ります。──行きます!」

 隣に立つ黒髪が、ざっ、と音を立てて揺れて前へと飛び出す。それにあわせて、貴方も全力で前へと駆け出した。

 勢い良く飛び込んできた侵入者に興味を持ったか、部屋のいたるところで浮遊していた妖書達が集まってくる。その集団へと向けて、貴方は構えた武器を振り上げ、初撃となる技法を解き放つ!



battle
舞い踊る妖書


 ──茨の園のお転婆姫、という物語がある。

 

 いつかの時代、いつかの場所、とある茨の森の奥。

 そこには幼い姫が、機巧の大人形や小人の庭師といった人外の召使達と共に住んでいた。

 穏やかながらも刺激のない暮らしに酷く退屈していた彼女は、昔母から教わった「人を永遠の眠りに誘う魔法」を、茨の森に迷い込んだ者達に掛けて回るという悪戯を始めてしまう。彼女の付き人たる庭師や召使達はそれを諌めるが、しかしお転婆な姫は懲りる事無くその魔法を使って遊び続けて──そして、何気なく眠らせた一人の少年に恋をしてしまう。

 当然、姫は少年に掛けた呪いを解こうとする訳だが、そこで彼女は、自分が使っていた魔法の解き方をすっかり忘れてしまっている事に気づくのだ。

 恋する彼を目覚めさせる為、茨の姫君は召使達を引き連れて、自分が掛けた呪いを解く手段を探す旅に出る。『茨の園のお転婆姫』とは、そんな御伽噺だった。

 

 そして今。

 件の物語の主人公となる茨の姫君が、器具区画へ繋がる筈の大扉の前で、ふんむと両腕を組んで立ち塞がっていた。



「どーん! ここは通行禁止でございまーす! 何人たりともこの先には通しませんわ。ましてや貴女、エウセニッティ・ランフォードはね!」

 甲高く叫び、両手を勢い良く突き出すのは、美しい装飾を施されたドレスに身を包み、茨で編まれた冠を頂いた少女だ。

 群がってくる妖書達を蹴散らしながら進み、何とか大部屋の反対側に辿り着いた貴方達の前に姿を現したのがこの少女だった。ふわふわと空中を浮んでいる彼女の背には大きく開け放たれた扉があり、しかし開いた事によって生まれている筈のスペースは、強い輝きを放つ茨の蔓がみっしりと生めて、指が通る隙間すらもない状態になっていた。

 そんな姫君の前に立つのは黒髪の娘、エウセニッティである。彼女は苛立ちを隠す為なのか殊更硬い表情で、辛抱強く茨姫に話し掛ける。

「ですから、茨姫。クリスが倉庫区画へ入っている間、開いたままにしておかなければならない扉から、妖書が倉庫区画へ侵入してくるのを阻むのがあなたの役目なのでしょう? でしたら、私達は通して頂いても問題ないと思うのですが」

「そんなの聞いてませーん。あたしは主様から『僕が出てくるまでここ塞いでてね、愛しの茨の君』って言われただけですもーん」

「前半部は確かにクリスが言いそうな内容ですが……後半部分の捏造は何なんですか。それに私は彼の助手です。もしまだクリスが必要な物を見つけていないのなら、それを手伝わないと」

「捏造だなんて、失礼な事言わないで。それにこうも言ってたかしら。『必要な時に傍にいないなんて、エニィは出来の悪い助手だ。いっそ愛しの君。君が正式に僕の助手になるかい?』って」

「……ですから、捏造は止めなさいと言っているでしょうに。というか、台詞全捏造ですか」

「あら、実は一箇所だけ本当ですのよ? あと、『物探しする時にエニィが居ると、横であれやこれや煩くて適わない』とかも言ってましたわね」

「……ほう」

 ピキ、とエウセニッティのこめかみに血管が浮んだような気がした。

 二人の会話──いや、対峙と呼ぶべきか、攻防と呼ぶべきか。兎に角それを傍から眺めていた貴方は、こう断じる。

(仲、悪いのか)

 茨姫の態度に引っ張られているのか、エウセニッティもこちらと応対している時とは違って声と表情に乗る感情の量──主にマイナスの感情が多いような気がした。

 下手に巻き込まれても困るので、口論を続ける二人から貴方は何となく距離を取る。

 そんな貴方の行動にも気づかず、エウセニッティは大きく息をついて顔を揉み解す事で、僅かに逆立った感情を誤魔化す。その様子から推測する感じでは、今にも怒鳴りかかりたいが、茨姫が塞ぐ扉を抜ける必要がある以上、そういう暴挙に出るわけには行かないと言ったところか。

「兎に角、茨姫。クリスは一度倉庫に入ると、目当ての品が見つかった後もあれやこれやと倉庫の品をひっくり返す習性がありますので、速く彼を引っ張り出したいの。もう約束の方もいらっしゃってるんです、ほら」

 言って、エウセニッティは片手を広げて貴方を指し示す。

 その仕草に釣られて、初めて。茨の冠が乗った頭が横へと動き、不思議な色を放つ丸い両眼が貴方を捉えた。

 茨姫の視線が、上から下へ、そして下から上へと戻り、そのまま暫くじっと貴方を見詰めた後、小さく首を傾げてエウセニッティを見た。

「誰ですの、そいつ」

「誰、って」

 エウセニッティが、素の表情のまま目を瞬かせる。

「【NAME】様は、クリスのお客様です。今滞在している概念世界で、不安定な『力の書』が見つかって、暫くクリスはそれの対策を練っていたのですけれど、丁度上手いタイミングでこちらの方──協力者が見つかりまして。その方がこうして船までいらしたので、クリスを捜しに来たのですけれど、私一人だとあなたに疑われそうだから、態々その協力者の方も一緒に来てもらったのだけど」

「不安定な『力の書』? 対策? 協力者? 何それ、あたし、聞いてない」

「あら」

 戸惑ったように呟く姫に、エウセニッティは本気で不思議そうな顔をして、一拍。

「……あ、そうか」

 ふと、その表情が先程クリスの声真似をしていた茨の姫に良く似たモノとなり、流し目の奥からは今から仕返ししますよー、という意思がちらちらと見え隠れする。

「うっかりしてました。姫君は単にここを塞ぐ為だけにクリスに呼ばれたのですから、彼から知らされてないのも当然ですよね。話す必要ないですし」

「────」

 声を詰まらせた茨姫が僅かに顔を伏せた。その様子を見て、エウセニッティは気持ち良さそうに顎を上げて、調子良く言葉を続ける。

「だから、もしクリスから聞いていなかったとしても、姫君に何か落ち度がある訳じゃないと思うんです。所詮クリスが治める無数の『力ある書』の一冊でしかないんですから、聞いてなくて当然です。彼の事情の把握は、助手を務める者がしていれば良い訳ですし」

「……どうせ」

 ああ、しかし。

「それなのに私ったら、あなたがその事についてクリスから聞いているとばっかり思い込んでしまって。きっとアレですね。姫が常々クリスから助手にならないかって誘われてると言うものだから、てっきり」

「……どうせ、私は」

 そんなに追い詰めると。

「私と同じくらいにクリスの傍に居て、彼の行動を把握して、その上で手助けしていると思っていたのですけれど、なんだ。用があるときにちょっと呼ばれて、そのまま仕舞われちゃうくらいの扱いなんですね」

「貴女みたいに、何時も必要にされてる助手サマじゃありませんよ! もー怒った! 貴女なんか──」

 ほぼ確実に、この扉を通してもらえなくなるような。


「──私の世界、『無限たる茨の庭園』で延々彷徨ってなさい!!」


 叫び。同時に、茨の姫の手に一冊の童話が現れ、そのページがばらばらと開かれて、そして。

「あ……ま、待って、姫!」

 エウセニッティの制止も飲み込むように妖書区画の片隅、姫君が掲げた本から強烈な閃光が走り、その光に飲まれるようにして周囲の景色が塗り替えられる。

 新たに生まれる風景は、茨の壁で区切られた美しい庭園だ。

 しかし、貴方の周囲と、エウセニッティの周囲を埋め尽くす景色は微妙に異なっていた。

「──ああ、もう! 【NAME】様、これを!」

 エウセニッティの姿が完全に別の景色に掻き消される寸前、彼女が己の手袋を外し、貴方の方へと投げ寄越す。

 慌てて受け取り、一体これをどうすれば、とエウセニッティの方を見るも、もう既に彼女の姿は完全に掻き消えていた。新たに生まれた茨の庭園の中心に残されたのは、エウセニッティの手袋を手にして茫然とする貴方のみだった。





──無限たる茨の庭園──


 どうしたものか。

 貴方は辺りを一度ぐるりと見渡し、頬を掻く。

 つい先程まで自分が居たのは、メイファリアの船の一区画。妖書が飛び交う不気味な大部屋だ。

 しかし、今眼の前にあるのは、茨の壁で囲われた小さな庭園だ。建物の中に居た筈だというのに空は青く拓けて、近くにはよく手入れされた長椅子と花壇が置かれ、隅には天蓋つきの噴水まである。

(これは、つまり……)

「貴方。【NAME】、でしたっけ?」

 と、背後から唐突に声が来た。

 慌ててそちらへと振り向くと、そこには茨の冠を頂き、綺麗なドレスに身を纏った小さな女の子が、腕組みしながら立っていた。

「あたしはクリストファ・A・レネイルを主と仰ぐ『力ある書』の一冊、『茨の園のお転婆姫』の現身。皆は茨や姫と呼びますわね。以後お見知りおきを、お客様」

 むっつりとした顔で貴方を見据えつつ、少女は僅かに御辞儀する。

「それで貴方、今の状況判ってるかしら」

 まぁ、何となくは、判っている。

 今眼の前に居る、どこか不貞腐れたような表情の彼女が広げた書の世界に飲み込まれたのだという事を。

 その答えに、彼女は表情を変えぬまま小さく頷き、

「結構ですわ。それで、申し訳ありませんけれど、主様──クリスが用件を済ませて倉庫区画から戻ってくるまで、貴方にはこの庭に居て欲しいの」

 要するに、自分は籠の鳥、という事だろうか。

「そうなりますわね。今、あたし達が居るこの噴水のある広場には、一応外の迷路へ繋がる道が四つありますけれど、もしここから出た場合、命の保証はしません」

 物騒な発言に、自然、貴方の視線は厳しくなる。しかし茨の少女は先程エウセニッティとのやり取りで見せていた様子とは全く異なる冷静さで、その視線を受け止める。

「迷路を巡回する『番人』が居りますの。あたしのお気に入りよ。もし見つかったならまず助からない、だから外には出ないようにしなさい。あたし、主様に怒られたくはないから。少し出回るくらいなら構わないけれど、出回るつもりならそこの噴水を覗いてからにしなさい。『番人』の位置が大雑把にだけど判ります」

 彼女は指で広場の隅にある噴水を指差し、そして小さく息を吐いた。

「こんな処かしら。じゃ、あたしはこの辺りで失礼するわ。今からちょっと──やる事が、ありますので」

 言って、彼女はひらりとその身を翻し、そのまま振り返る事無く茨の壁の隙間を抜けて去っていった。

(それにしても)

 あっさりと去っていった彼女の背を茫然と見送りつつ、貴方は思う。

 彼女の残した言葉の最後、小さく零れた呟き。

 その時垣間見た茨姫の顔は、凄まじいまでの嗜虐の色に染まった暗い笑みだったな、と。



《【NAME】様。聴こえてますでしょうか》

 そんな風な、声ではない声が、貴方の意識に直接聴こえてきたのは、茨の姫君が庭の向こうへと消え去ってから一分程過ぎた頃だったろうか。

(この声は──)

 エウセニッティ、だろうか。

《はい、私です》

 内心の呟きに答えるように、手に持ったままだった彼女の手袋が僅かに震えて、貴方の意識に言葉を伝えた。

《私の手袋は左右で一組になってまして、別にそれに遠隔会話機能を付属している、というわけではないのですけれど、概念的な一体感を利用して似たような真似が出来るんです》

 成程。

 手袋の甲の部分に刻まれた複雑な文字列が、エウセニッティの声を伝えるごとにぼんやりと明滅する様を見ながら貴方は頷く。

《それにしても──済みません、【NAME】様。まさか説得する相手が貴方の事について全く知らないというのは想定外でした。完全に無駄足を踏ませてしまったみたいで……》

 その部分もそうだが、今この状況に陥った原因も、最後で茨姫をここぞとばかりに煽りに煽ったエウセニッティにあるような。

《……本当、申し訳ありません。実は姫君には常からあれこれと言われてまして、つい好機が訪れるとここぞとばかりに日頃の鬱憤が》

 ……何やら、色々と溜まっているようだ。

《それで、ですね。今後の予定なの──すが、っと》

 微妙にエウセニッティの声が途切れる。

《済みません、実は今もう既に結構取り込んでまして》

 取り込んでる、とはつまり。

《実は、先程から、姫君お手製の秘密の園で、ッ、は、と。姫が直々に操る化け物蔦相手に大……と、立ち回り中でして、中々意識の集中が》

「…………」

 どうやら、エウセニッティの居る庭は、今貴方が居るような平和な場所では全く無いらしい。

《っとー、は、一段落。……で、えー、それで脱出についてなのですが、この茨の園──と言いますか、『力ある書』が顕現させた世界は、世界の何処かにある『力ある書』本体を見つけて、開かれたままになっているそれを閉じてしまえば失われます。以前アグナ・スネフで見たモノはあくまでイメージ。探すのは本物の『力ある書』です。私が自分でそれを見つけられたら速いのですけれど、完全に茨姫から監視されているので書を探すのはほぼ不可能です。申し訳ありませんが、貴方が何とか『茨の園のお転婆姫』を探してください》

 といわれても、一体何処を探せばいいのやら。

 途方に暮れた貴方の意思に、間髪入れずにエウセニッティの言葉が返って来る。

《茨姫が生み出す茨の庭園は、基本は茨の壁で区切られた無数の迷路なのですけれど、その全ての迷路が彼女の暮す小さな屋敷と繋がっています。元々は屋敷に住む彼女の退屈を紛らわす為に作られたものですから、屋敷に繋がっているのは当然と言えますが》

 そういう話を彼女がしてくると言う事は、つまり、

《はい。『力ある書』はその屋敷にあると考えます》

 ふむ、と。貴方は一つ息を吐く。

 先程の茨姫の言葉の一つを思い出す。この茨の園には、不審者を排除する『番人』が居るという。今居る中央の庭園は安全だが、四方を囲う茨の壁に小さく開いている隙間を潜って外へと出た場合、命の保障はしない、と。

《茨姫はクリスが帰って来るまで閉じ込めるって言ってたようですけれど、書の中と外では時間の流れが異なっていたりするから、開放は期待しないでください。と言いますか、私のほうがもたな──》

 エウセニッティの言葉が途中でぶつりと途切れた。

(どうなった?)

 暫く手袋を握り、彼女が続きの言葉を送ってくるのを待っていたが、いつまで経っても音沙汰はなく、よくよく見れば手袋の甲に刻まれていた文字の輝きが殆ど失せていた。

「…………」

 大丈夫なんだろうか、と思うが、心配したところでどうにもならない。

 自分が出来る事は、さっさとこの世界を閉じてしまう事だけ、か。



 複雑に入り組んだ茨の壁でもって迷路化された庭の中央に、ぽっかりと開いた空き地がある。

 丁寧に手入れされた長椅子に、ささやかで小さくもあるが品の良い花壇。隅には石の天蓋つきの噴水が置かれ、この場所だけは訪れる者を憩うという意思が感じられる。茨の姫が自分をここに飛ばしたのも、その辺りに理由があるのかどうなのか。彼女と顔を合わせた僅かな時間で得られた情報から推測するに、あの姫君はそれほど細やかな心遣いができるようなタイプでは無さそうな気もするが。

「……さて」

 まぁ、その辺りの事は今はどうでも良い。

 あの姫はこう言っていた。この中央の公園は特別だ、庭を巡回している『番人』はこの公園には近づかず、更に『番人』が今何処に居るのか判ると。

 彼女の発言から察するに、『番人』とやらはロクでもない強さらしい。それがどれ程のものかは判らないが、わざわざ体感するほどこちらも酔狂ではない。位置が判れば、『番人』とやらに出会う確率も下げられるだろう。

 貴方は姫の言葉を思い出しながら、空き地の隅に建てられた噴水に近寄る。見るべきは、中央に置かれた台から上方へと噴き出す水等ではない。重要なのは、下部の水が溜められた円形の台座の中。

「これか」

 水の中をコロコロと転がる、鉛色の鉄球。

 噴水部分を今自分達が居る場所に見立てた場合、鉄球の位置が今『番人』とやらが居る位置になるらしい。


(……ふむ)

 この鉄球が指し示す方角が、今『番人』が居る位置なのだろう。

 注意すべきは、あくまでもこの時間に『番人』が居る位置であって、こちらが移動した時にはまた別の位置に居る可能性があるという事。

 とはいえ、北西に居た『番人』が次の瞬間には南東に居た、という事もあるまい。行動の参考程度にはなる筈だ。

 さて、それを踏まえて──これからどう動くべきか。






 現在の状況を確認するため、貴方はぐるりと辺りを見回す。

 今居る場所は迷路の庭の西側だ。

 複雑にうねり、視界を埋め尽くす茨の壁に開いた穴は、南北と東の三方──なのだが。

「…………」

 西側。一際高い茨の壁の一角に奇妙なモノ──今居る庭の迷宮へ来る時に通った、太い茨の蔓で覆われた扉がある。


 蝶番自体は少し力を込めれば簡単に外れる類のものだった。

 が、問題は扉を覆う奇妙な色の茨である。

「ふ──ぐ……っ」

 全力で持って扉を開く。ぎしり、と軋む音を立てて扉が動き、纏わりついていた太い蔦ごと扉を押し開いた。

 詰めていた息を吐く。

 取り敢えず、これで扉の奥──迷路の庭を更に西、二つある庭を繋ぐ細道へと移動できるようになったのだが。

「……徐々に閉まっていってる」

 通るならさっさと通らないと、また扉を開ける為に無駄な力が必要になりそうだ。






 茨で塞がれていた扉を潜ると、そこは東西へと伸びる細い一本道だ。

 道の終端にはそれぞれ扉が存在し、その向こう側には茨の迷宮が続いているようだ。

 どうやら東と西に、それぞれ一つずつ茨の庭が存在しており、今居る道はその二つの庭を繋ぐモノであるらしい。ここまでは簡単な話だ。

「で……」

 問題は、その通路の中央付近北側に聳える、巨大な門な訳だが。

(──この先に、恐らくは)

 庭の主たる、茨姫の家があるのだろう。

 が、しかし四つの色を持つ石が嵌めこまれたその門は大きく、鍵らしきものはついてないようだが、人の力で開くのは難しそうだ。


 これは開かない──と、そう思ったのだが。

「あれ?」

 何となく扉に触れてみると、まるで重量が無いかのような軽い手応えと共に、門があっさりと開いた。

 奥を覗き込むと、丁寧に手を入れられた花壇に四方を囲まれた小さな家が、ぽつんと建っていた。

「……あれが」

 エウセニッティの言っていた、茨姫の暮す屋敷だろうか?





──姫君の小さなお家──


 一応、敵の本陣、と考えるべきなのだろうか。

 貴方は武器を手に、慎重に屋敷へと近づく。花壇の間を抜けて、屋敷正面の閉じられた扉にそっと手を掛ける。

 鍵は──掛かっていない。僅かに隙間を開けて中を覗く。

 こじんまりとした屋敷ではあるが、内装は中々に凝っている。どういう手段で手に入れたのかも判らぬ美しい調度品が、屋敷の規模と比べ不釣合いにはならぬ程度に配置され、所々に花が飾られている。埃なども一切見当たらず、普段から良く手を入れられているのが容易に判った。

 屋敷の構造は、一見して単純だ。入口から直ぐ傍に、上へとあがる階段。通路は正面方向に伸びており、左右に幾つかのドア。突き当たりにはドアはなく、大きく取られた部屋の中央に豪華なテーブルが置かれているのが見えた。

 人──か、それに類するような存在の気配は、少なくとも一階には感じられない。

 一度息を吸い、そして吐く。

 とりあえず目に見える範囲での移動経路を決めて、行動開始。

 廊下から繋がる各部屋のドアを僅かに開いて覗き、飛び込み、中を探す。部屋の様子はそれぞれだったが、その何処にも探し物である書は見当たらなかった。

「……となると」

 上か。

 そう思ったとき、どん、と天井が鳴り、何やら興奮しているらしい少女の叫び声が聞こえた。

 響いた声は、確かあの茨姫のもの。どうやら彼女は二階の部屋にいるらしい。そして『力ある書』が一階にないと言う事は、自分も彼女が居る二階に上がらなければならない訳だ。

(というか……)

 普通に考えれば、茨姫は『力ある書』を自分の傍に置いている可能性が最も高いだろう。この場合、エウセニッティが言った手段──開かれた状態の『力ある書』を閉じる──を取るなら、どう考えても彼女に気づかれる。

(……戦闘は恐らく避けられない、か?)



 そう危惧しつつ向かった二階の一室で。

 唯一半開きになっていたドアから中の様子を覗きこんだ貴方は。


「あはははは、そーりゃ逃げなさい逃げなさい、エウセニッティ・ランフォード! のんびりしてると茨の棘が貴女のそのご自慢の髪を滅茶苦茶にしちゃいますわよ!」


 部屋の奥に置かれた巨大な鏡台に向かいながら、愉快そうに笑う茨姫の姿を見た。

 彼女の前に置かれた鏡には、彼女自身ではなく別の場所──茨の壁に覆われた迷宮の一角を写している。その真中で飛び回っている黒い人物は、恐らくエウセニッティだ。彼女は周囲から伸びてくる無数の蔦を器用に捌き、巻き付かれないように素早い動きで庭園を駆け抜けていた。

 茨姫の両手からは細い茨の蔦が伸びており、蔦は鏡の中へと沈んで、その向こう側に映る庭の中で踊るように撓り、逃げるエウセニッティを追いかけている。

「…………」

 その光景から推測するに、どうやら茨姫はこの部屋から、鏡台を介してエウセニッティにちょっかいを掛けているらしい。しかも姫の意識は完全に鏡の向こうのエウセニッティに向けられており、部屋を覗き込んでいるこちらに気づく様子など微塵も無い。

 そして、視線を巡らせた貴方は、鏡台から少し離れた場所に設置された、天蓋付きのやわらかそうな寝台の上に。

 淡い輝きを零す、大きく左右に開かれた巨大な本が無造作に投げ置かれているのを見た。

(ああ、これは)

 本と、鏡台の前で心底楽しそうに笑っている茨姫。その二つを交互に見てから、貴方は拍子抜けといった風に己の頬を二度ほど掻いてから。


 ぱたん、と。


 無造作に寝台に近づいて、本を閉じた。

 瞬間、世界が砕け、全てが真っ白に染まった。



 白一色に染まっていた視界が、漸く元に戻る。

 光に当てられ、眩んだ頭を一度振る。そして漸く落ち着いて辺りを見渡せば、そこは澱んだ空気に満ちた大部屋の一角だ。

「これで一段落ですね。……まったく」

 響いた声にそちらへと振り向けば、全身ぼろぼろ、髪も派手に乱れたエウセニッティが、大きく溜息をついていた。手袋もなく、素手となった彼女の両手には一冊の童話が、表面に奇妙な文字列が刻まれた幅広の革ベルトにぐるぐる巻きにされて収まっていた。

「これは『力ある書』を封じてしまう特殊な革帯です。アグナ・スネフの『力ある書』用に出してきたモノなんですけれど、まさかここで使う羽目になるなんて」

 深く深く、疲れの混じった吐息を再度つくエウセニッティ。恐らく茨の庭園に取り込まれてから延々戦闘を続けていたのだろう。全身から滲み出ている疲労感が並じゃない。

 しかし彼女はその吐息を区切りにして、気持ちを切り替えたのか。表情を改めて貴方の方を見ると、

「そんな事より、【NAME】様。本当にご迷惑を。そして有り難うございます」

 深々と、頭を下げる。

 まぁ、確かに彼女からすればこちらに対しては非常に心苦しいモノがあるのだろう。

「でも、これで茨姫の封鎖は解けましたので、器具区画の中へ入れます。行きましょう、【NAME】様」

「何をしにいくんだい?」

「何、ってクリスを探しに行くんですよ」

「僕を?」

「…………」

 貴方とエウセニッティが、同時に声のした方向──茨が取り除かれて通れるようになった通路の奥を見る。

 そこには髪を肩の高さ程度に切りそろえた、品の良さそうな青年が一人。手にした宝石を転がしながら、貴方達の方を不思議そうに見ていた。





──司書は示す──


「それはまた、完全な無駄足だったね。ご愁傷様」

「……貴方が突然居なくなるから、こうなった訳ですが」

「うん、その辺りはまったく申し訳ない。彼に渡すための品を出しておくのを寸前まで忘れていてね。君にも、謝罪する」

 既に貴方とクリス達は、危険な十四区画からエントランスまで戻っていた。

 そのエントランス中央に置かれたソファ。貴方の対面に座った青年は、軽くこちらに頭を下げてみせる。

 確かにあれやこれやと大騒ぎだったが、一応無事だった訳だし、と貴方は軽くこの場を流しておく。眼の前に置かれた、あの老人が入れてくれた紅茶に免じて。

「ありがたいね。では、改めて。僕はクリストファ・A・レネイル。この三千世界の英知が集う、メイファリアの船の現管理人。これは以前にも言ったかな」

 彼はテーブルに置かれた一冊の本、ゴールデンチェインに軽く手を置いてから、カップを手に取り、一度口に運ぶ。

「で、どうしようか。『力ある書』についての話は、もう結構してしまったんだろう、エニィ」

「……図らずも、ですが。器具区画に行く間に色々とありましたので」

 カップをソーサーに戻してクリスが問うのは右隣。そこで立ったまま控えるエウセニッティは、何かを堪えるような顰め面のまま、そう返す。

 ふむ、とクリスは唸り、少し思案するように視線を上へ。そして、

「ま、あまり詳しく話した処で別段得する話でもないし、簡単に説明しようか。このメイファリアは、あらゆる概念世界で生まれた『力ある書』やそれに類する又は準ずる書物を蒐集する為の施設だ。それで、エニィから聞いた話と重複する部分もあるかもしれないけれど──」

 クリスは語る。

 最近アグナ・スネフを徘徊する影の正体は、とある『力ある書』の目覚めによるもの。

 この『力ある書』とは、己に書かれた内容に則した世界を、外の世界へと発現させる力を持ち、更には書自体に固有の意思すらも持ち得る、異質極まりない書物の事を指すらしい。一定の段階にまで力を高めた『力ある書』は、自身の書に記された独自の世界を内側に有し、それを条件を満たす事で外側へと現す事もできる。更には、書が持つ意思の表現者として、先程の老人や、茨の姫君のような存在を生み出すことも可能だとか。

 貴方も今までの冒険の中で、勝手に動き回り、何やら特殊な力で攻撃してくるような奇妙な本と何度か出くわし、戦闘するような経験はあった。

 だがそれは、先程器具区画とやらに向かう際に出くわした妖書のようなタイプが大抵で、彼等の言う『力ある書』──アグナ・スネフでの影夢や、ここで出くわした『力ある書』達とは大分質の異なるものだったような。

「いや、基本的には同じようなものなんだ。書き手がその書につぎ込んだ思いや、その後の所持者達がそれを読む事によって生まれた想念。そんなものが積み重なって積み重なって、あとはちょっとしたアクシデントその他諸々の事柄を契機にして起きる概念的な変質で誕生──なんだけど、妖書になるか『力ある書』になるかは、その環境による差と、あとは内にある『物語』の差だね。『力ある書』のほうが条件が厳しいのは確かだが」

 今回のアグナ・スネフの件は、まだ生まれたばかりの『力ある書』が誰かに開かれ、まだ幼く不安定な状態である『力ある書』が『読み手』を内に中途半端に取り込んで、己の世界を解放させているのが原因であるらしい。力を持ったばかりの『力ある書』には比較的良くある事件だとか。

 クリス達は、『力ある書』を集める為の力として、そう言ったモノの存在を感知する能力があるという。そして、その能力が、アグナ・スネフで『力ある書』の存在を感知したと。

「影夢っていうのは、中途半端な『力ある書』が己の世界を完全に投影できなかった時にでる、残滓──というか、形を持つ前の不安定な塊みたいなものでね。とはいえ、エニィから聞いた感じでは影の量がかなり多かったらしいから……今回アグナ・スネフにあるらしい『力ある書』は、多分元々影に関する物語を持った本だったのだろうね。で、僕らとしてはそういう不安定な『力ある書』は早くに保護したいんだ。暴走した『力ある書』は危険だし、それにそういう書は大抵その世界にある治安組織等で処理されてしまうからね」

 蒐集を目的とした彼等にしてみれば、『力ある書』が破壊されるのは困るのだろう。

「だけど、まぁ、実は僕達はこの世界からしてみると幻みたいなものだから、あまり積極的に外で動き回りたくないんだ。正確には、この世界の出来事に対する影響力があまり無いんだよね」

「……?」

 渋い顔で首を傾げた貴方に、クリスはどう説明したものかなと迷う。

「僕らは君らの言う『現出』とやらでこっちに来た訳じゃなくて、その流れを確認した後、自分達の力でもってこちらへ移って来た。それで、こちらの世界に合う様に自分の存在概念に手を入れたという訳じゃないから──うーん、要は透明人間?」

「少し違うと思いますが。……そうですね、関わらざるべき部外者、というのが適切では」

 クリスが傍に立つエウセニッティを見上げると、彼女は少し視線を彷徨わせてからそう答える。

「その辺りかな。まぁ、端的に言うと君の世界の出来事に僕達が直接関わるのは宜しくないって事だね。干渉力が無いから、君らの世界ではあまり長時間形を保っていられない。だから──アグナ・スネフで力を発揮している書物の世界へ、偶然でも入り込めた君にこうして来てもらったって訳だ」

 要は、自分達はあまり事件に関わりたくないので、こちらにその全てを押し付けたい、という訳か。

「うん? 君はエニィに『事件を解決したい』といっていたらしいから、僕らは情報と手段を与え手助けをしようと思っていたのだけど。これでは不満かい?」

 ……そう言われると、返す言葉は無いが。

 黙った貴方に、クリスは満足気に頷くと、

「とりあえず、エニィから話を聞いていて疑問だったのが、何故君があの世界へと紛れ込んでいたのかという理由なんだけど──」

 彼は貴方を暫し眺めて、つ、と貴方の身体の一点を指差す。

「その印が残した影響だな。僕らはこちらの人間ではないからこちらの技術についてはあまり知識がある訳じゃないけれど、どういう効果が発揮されているかくらいは何となく判る。概念や対位相に関係するものだね。多分それがちょっと悪戯して、君が望んでいた事件の原因、『力ある書』が不安定に出現させていた世界へと引っ張り込んでくれたんだろうね」

「…………」

 難しい顔のまま、貴方は指し示された箇所を一度撫でた。

「それがどういった経緯で君に刻まれたのかは知らないし、聞こうとは思わない。けれど、それのお陰で君が『力ある書』が発現させる世界に侵入しやすくなっているのは確かだ。だから、僕らは君にこれを預けようと思う。エニィ」

「はい」

 クリスの指示に、エウセニッティが取り出したのは、革製のベルトでぐるぐる巻きにされた一冊の本だ。彼女はそれをテーブルの上へと置く。

 これが、一体何なのだろうか。貴方が顔を上げてクリスを見ると、

「……あれ?」

 意外な事に、クリスは不思議そうな顔で首を傾げていた。

「ねぇ、エニィ」

「はい」

「何で封帯が使用中なのだろう?」

「ご自分の胸にお聞きになると宜しいのでは無いでしょうか」

「……ああ、そういえば茨姫の姿が見当たらなかったね……ええと、エニィ」

「はい」

「……解いて良いのかな?」

「ご自由に」

 微妙な間を置いた後、クリスは帯に手をかけてそれを外す。

 と、同時。


「──エウセニッティ・ランフォード! よくも、よくもやりましたわねぇ!!」


 本の中から、茨の冠を頂いた少女が憤怒の表情で飛び出し、そして、

「……って、主様? あれ?」

 ぽかん、と動きを止めた。

 クリスは己の側頭部をこんこんと叩きつつ、空いた手で眼前に浮ぶ姫君の頭に手を置くと、

「また喧嘩したのか君は。取りあえず今は引っ込んでなさい」

 そのまま、本の中へと彼女の身体を押し戻した。



「で──予想外の事はあったけども」

 何ともいえぬ微妙な間の後。

「取りあえず、君に渡しておきたいのはコレだ」

 クリスは『茨の園のお転婆姫』をテーブルの脇に置くと、先程解いたベルトを手にとって、そして貴方のほうへと押し出す。

「そのベルトは特別な品でね。巻きつければ『力ある書』の能力をほぼ完全に封じ込められる。これと」

 次に、彼は己の懐に手を突っ込むと、そこから先端から長い紐を垂らした宝石を取り出し、貴方に手渡す。

「これが、『力ある書』が構築する世界の中で、本体たる書の在処を方角で報せてくれる道具だ」

 二つの品を受け取って、それを交互に見てから一拍。

 貴方は成程、と頷く。彼等が自分にさせたい事はわかった。

 この二つの品を持ってアグナ・スネフで展開されているあの空間へと赴き、そこで先程の茨姫の園を抜け出した時のように、世界を発現させている『力ある書』を宝石を併用しつつ探し出して閉じ、この帯でもって完全にその活動を停止させてくれ、という事か。

「理解が早くて助かる。尤も、その動作だけでは『力ある書』を単に封じただけだから、それをこのメイファリアへと運んできてくれ。そうすれば、書に取り込まれているだろう『読み手』を助ける事も可能かもしれない」

 クリスの言葉に、貴方は少しばかり眉根を寄せる。

 読み手を助ける、とはどういう事だろうか?

 問いに、彼ははてと首を傾げる。

「言ってなかっただろうか。不完全な──いや、全ての『力ある書』は基本的に、書が認めた読み手というのが存在するんだ。そこの『茨の園のお転婆姫』や『ゴールデンチェイン』は僕がその『読み手』に該当する。それでね、ある程度の段階に達した『力ある書』は単体である程度力を発揮できるようになるからあまり重要度はなくなるんだけど、不完全な『力ある書』の場合、そういう相方の存在が外に力を現すには必須でね。そこでもし書の方が暴走してしまった場合、大抵『読み手』が本の持つ世界へと完全に取り込まれてしまう」

「…………」

 少々説明が長い。

 つまり、どういう事か。

「アグナ・スネフで暴れてる『力ある書』は多分人を一人飲み込んでる。で、それをそのまま破壊すると恐らくその人物が概念的に死んでしまうから、取りあえず帯で封印してこっちに持ってきてほしいって事」

 一気に判りやすくなった。貴方は頷くと、渡された二つの品を間違えて手放さぬよう慎重に仕舞いこんだ。

「こちらからの話はこれで終りかな。夜になれば、街にエニィを派遣するから、準備が済んだら彼女と合流してアグナ・スネフの書の世界へ潜ってくれ」



 塔の外へと一歩出る。そして背後を振り返ると、既にメイファリアの乳白色は無く、ただ何も無い草原だけが存在していた。

 存在感の残滓のようなものはまるで無く、白昼夢でも見ていたかのよう。

 だが、貴方の懐には金髪の青年から託された二つの品が確かに納まっている。

「後は、動くだけか」

 頃合を見て、夜の街へと繰り出すことにしよう。

司書   鬼神が如く

──封都アグナ・スネフ──


「こんばんは」

 待ち合わせの場所は、アグナ・スネフの都の境界を示す堀の傍。

 既に夜も更け、都の住人達も眠りについて深い静寂に包まれた街並み。それを何とは無しに眺めていた貴方は、背後から掛けられた声に振り返る。

 そこに立っていたのは貴方の待ち人。あの不思議な図書館に暮らす司書の助手、エウセニッティ・ランフォードである。

「お待たせしてしまいましたか。そういえば、詳細な時間は定めてはいませんでしたね」

 長い黒髪をなびかせながら貴方の傍へと歩く細い影に、貴方は首を小さく横に振る。公社の方での手続きもあり、やってきたのはつい先程だ。

「公社、ですか? ……確か、この国にある冒険者向けの仲介所みたいな場所、で宜しかったでしょうか?」

 僅かに視線を宙に泳がせ、己の記憶を辿るように彼女は問うてくる。エウセニッティは、彼女曰く『この世界の者ではない』が故、こういった五王朝で暮らしている者なら当然ある筈の、ごく基本的な知識がさっぱり無いらしい。

 貴方は彼女の質問に肯定の頷きを返し、そしてこう続ける。

 元々この事件に関わるようになったのは、斡旋公社で受けた仕事での繋がりだ。そして今回、自分達がアグナ・スネフにあるという『力ある書』とやらをどうにかする事が出来たなら、夜の都を脅かしていた正体不明の影も当然居なくなる事となり、ここ暫く公社を悩ませていた難事件も無事解決となる。つまり──。

「事前に『今夜、自分がこの事件を絶対に解決する』とでも言っておけば、事件解決の報酬も手に入る上に、難事件を解決したあなたの冒険者としての名声もあがる、と。ふふ、その辺りはさすが冒険者、抜け目が無いですね」

 逆に言えば、今夜中に成功させなければ信用ガタ落ちなのだが。

「ですね。では、あなたの報酬の為にも頑張りましょう」

 エウセニッティは小さく笑みを浮べてから、一歩踏み出した。堀を越え、都の中へと。



「まず、今回の手順を説明しましょうか。といっても、そう難しい話でもないのですけれど」

 そう前置きした後。

 堀の外側から内側、都の縁まで移動した彼女は、後ろを付いて歩いてきた貴方から都の方へと視線を移す。

「既に都には『力ある書』の世界が、位相の形ですけれど顕現しています。今から私が、その相に合致する形へと自身の存在概念をズラします。これで、私はこの世界よりも『力ある書』の世界に近しい存在となり、目に映り、感じる世界も相応のモノへと変化する──つまり、書の顕現させた位相空間へと潜り込む形になるのですが」

 そこまで言って、エウセニッティはこちらへ視線を戻した。

「【NAME】様。あなたは、そう言った力を自分で意識しては使えませんよね?」

 そんな人外じみた真似はどう考えても無理です。

 無言で首を横に振った貴方に、「それでは」と彼女は懐から取り出したのは、一面にびっしりと不可思議な文字が書き込まれた小さな紙片が二枚。

「それを解決するのが、これ。クリス特製の紙記符です。どうぞ」

 差し出された片方の紙を貴方が受け取ると、紙が掌に触れると同時にどろりと紙の形が崩れ貴方の皮膚に溶け込んで消える。貴方は慌てて手を引っ込めて、目を瞬かせて己の掌を見るが、溶けた紙は既にその残滓すらも無く、完全に手の中へと消え去っていた。

「さて、どうでしょうか? 【NAME】様、あちらの方、見えます?」

 己の手をしげしげと眺めていた貴方に、エウセニッティが促す。貴方は顔を上げて、彼女の指し示す側──都の方へと視線を向けると、

「……む」

 広がる街並みが、僅かにぼやけている。普段の都の他にもう一つ。形自体は同様の、しかし別の気配を持つ何かが重なっているような。

 そう呟いた貴方に、エウセニッティは満足げに頷く。

「問題ないようですね。では、私も。ちょっとはしたないですけれどご容赦を」

 言って、彼女はぺろりと自身の舌を伸ばすと、その上に余ったもう一つの紙片を乗せた。そして薄い赤色の粘膜に紙が溶ける前に、するりと口の中へと紙を引き込んだ彼女は、両眼を閉じてむぐむぐと、何か味わうような顔つきで口を動かした後、小さく喉を揺らす。そして、

「これで、どうでしょう?」

 エウセニッティが問うてくると同時、二重写しの状態にあった貴方の視界が、途端に正常な物へと戻った。

「…………」

 変化の連続に付いていけず、貴方は渋い顔で黙り込む。一体これは何なのか。

「先程お渡しした紙記符には二つの効力が記載されていまして。一つが、あなたが持つという力を私達が望む方向で少しだけ利用させていただく効果。そしてもう一つが、発露した力の方向性を、私と同様の向きに整えるというものです。私が頂きました符は、あなたの力を多少なりとこちらで制御できるようになるものでして、今その力を使って、【NAME】様の感覚を通常の状態へと戻しました」

 判るような、判らないような。

 というか、自分にそのような力があり、尚且つ他人にそれを制御されているというのが何とも恐ろしい。

「力の方は私には何も言えませんけれど、制御──といいますか、私との同期は今日だけの事ですから我慢していただけると。効果は半日と持ちませんので」

 彼女の言に、首を捻る。効果時間は了解したとして、「私との同期」とはどういう意味だろう。

「先程の符の力は、正確には私と【NAME】様の存在概念の相を同期させるという効果なんです。今、私は【NAME】様が暮らす世界に相を合わせていまして、その状態で私が符を頂きましたので、【NAME】様が感知できる世界もそちらに固定された状態になった、と言いますか」

(──うーむ)

 貴方は心の中で小さく唸る。

 この辺りの『相』やら『概念』やらの話は、どうにも自分には理解し難い。そういった事に詳しいリトゥエがここに居るならまた話は別なのだろうが、彼女は今回の件にはノータッチだ。今頃は貴方が取った宿部屋にある寝台を、一人で独占している事だろう。

「簡単に理解していただくなら、取り敢えず私と一緒に『力ある書』が顕現させた世界へ入れるようになった事。あと、貴方の力がある程度『影夢』にも通じるようになりますね」

 曰く、自分の存在概念の相とやらが『力ある書』の世界に近くなるお陰で、こちらの攻撃も通用するようになる、という事らしい。

「といっても、【NAME】様の場合は完全に相を合わせるという訳ではありませんから、完全に通じないという事は無いですが、あまり効果的な攻撃にはなりえませんのでご注意を。基本的には私に任せていただければ何とかします。【NAME】様、先日クリスからお渡しした二つの品は今もお持ちでしょうか」

 確か、革帯と鎖のついた宝石だったか。

 貴方は自身の背嚢の底から、その二つの品を取り出してみせる。エウセニッティは貴方の手にあるそれを見て小さく頷いた。

「結構です。書の世界の中へと入ったら、宝石は鎖を手に持って、下へと石を垂らしてください。すると宝石が一方へと傾きます。石が指し示す方角へと進めば、その世界の根源となる『力ある書』の元へと辿り着く筈です。革帯の方は書を閉じた後、その帯で本をぐるぐる巻きにしてください。あとは革帯自体が勝手に封印をしてくれます。──書の世界へと入り込み、宝石で書の在処を探って、発見したら本を閉じて、帯でもって封印する。封じれば顕現していた世界は閉じますので、そこで一先ず御終いです」

 やる事自体はシンプルだ。あの影夢だらけの世界で書物を探し、それを閉じて帯を巻きつけるだけ。

 あの無数の影蠢く都の中を走り回り、たった一冊の本を探し出すというのは中々手間のかかる話であるが、前回、図書館で『無限たる茨の庭園』に閉じ込められた時も似たような事をして、無事脱出に成功している。今回はクリスから借り受けた宝石の助力、それにエウセニッティも居る。それに影夢相手にもこちらの攻撃が通用すると言うし、手間は掛かるにしても絶対に事を成すのが不可能、という程でも無いだろう。

「さて、早速参りましょうか。準備は宜しいですか、【NAME】様?」

 否は無い。一歩都へと近づき、そして貴方へと振り返ったエウセニッティに、貴方は力強い頷きで返す。

「判りました。では──」

 エウセニッティが黒革の手袋に覆われた掌を都の方へと向けて、ふと動きを止めた。

 彼女の気配に僅かな緊張の色が染まる。その険しい視線の先を追えば、

「……【NAME】様、戦いの準備を。どうやらお出迎えが来たようです」

 夜の闇から染み出すように、厚みの無い、平面の人影が幾つか、するりと立ち上がるのが見えた。

 まだ、書が生み出す位相の世界へと踏み込んではいないのだが──単なる偶然か、それともこちらが来るのを待ち伏せていたのか。

 どちらにせよ、相手をする他無い。現れた影夢は、この事件を追い始めた時に遭遇したものとも、以前書の世界に入り込んでしまった時に出くわしたものとも微妙に異なっているように見えた。時を経るごとに力を増してきているのだろうか。油断はできない。

 傍らのエウセニッティが両の拳を握りこむのを横目に見ながら、貴方は己の得物を手の内に引き寄せた。



battle
影の国より来る


 エウセニッティの振りぬいた一撃が、最後の影を消し飛ばした。拳の先より放たれた無形の力が場を走り抜けて、押し出されて巻き込まれた風に引き寄せられて、貴方は僅かに蹈鞴を踏む。

 放った姿勢のまま暫し固まり、そしてゆっくりと力を抜いた彼女は、眉間に皺を寄せてぽつりと呟いた。

「手強い、ですね」

(……確かに)

 武器を仕舞いつつ、その言葉に貴方は頷く。影の放つ攻撃は前よりも激しくなり、防御面でも術式技法等の概念干渉を行う攻撃は極めて通り辛い。物理攻撃ならば何とかダメージを与えられるものの、以前ならば絶対的ですらあったエウセニッティの攻撃でも一撃では倒しきれないようだった。

 エウセニッティは何かを考え込むように視線を下げていたが、気を取り直すように一つ息を吐いて面を上げる。

「兎に角、まずは世界へと入らなければ。【NAME】様、行きましょう」

 言って、エウセニッティが黒の皮手袋に覆われた掌を改めて都へと向ける。開かれた五指が小さく踊り、虚空に残像の線を引く。


 瞬間。

 視界が音も無く揺れた。


 思わず目を瞬かせる。

 眼の前に広がる街並み自体に変わりは無い。無いが、辺りに漂う気配が全く別物へと変質していた。

 空を見れば雲も無く、しかし月や星光りも無い、まるで都をそのまま暗幕で覆ったかのような不自然な闇に閉ざされている。

 それはいつか迷い込んだ、あの影のみが支配する偽りの封都の姿だった。





──都を駆ける──


 取り出したのは宝石の鎖。

 握り、掲げれば話の通りに宝石は独りでに揺れて、何かに引き寄せられるようにある一方へと傾いて止まった。この方角に、今居る不気味な封都の根っことなる『力ある書』がある。

(そういう事で、良いのかな?)

 少しばかり不安になり、宝石を自分に渡してくれたクリストファの助手である黒髪の彼女へと、貴方は伺いの視線を送った訳だが。

「…………」

 エウセニッティは、そんな貴方の様子には気づかず、両眉を寄せた険しい表情を浮かべて、都の様子を確かめているようだった。

 ──何か、気になる事でもあるのだろうか。

「え?」

 そんな貴方の呼びかけに、彼女は小さく肩を揺らしてから、振り返る。

「と、すみません。ええと、何でしょうか?」

 どうやら直ぐ傍に居る貴方の声すらも聞き逃す程に、何かを考え込んでいたらしい。一体どうしたのかと問えば、エウセニッティは「ああ」と呟き、

「確かに、少しばかり気になる事が。こうして改めて『力ある書』の夢、位相の場に入り込んで気づきましたけれど……ちょっと変だな、と」

 その答えに、貴方は首を傾げる。

 自分の感覚からすれば、この人の気配が全く絶えた影の封都が変ではない筈も無いのだが、彼女が言っているのはそういう事ではない筈だ。

 今、自分達が入り込んだこの『力ある書』の世界が、他の──彼女が知る『力ある書』の顕現させる世界と比べて「ちょっと変」という意味。

 では、一体何がおかしいのか?

 メイファリアの船──あのアグナ・スネフの郊外に現れた奇妙な図書館──で会話した司書クリストファは、アグナ・スネフで顕現しているという『力ある書』の世界を「生まれたての未熟な書が生み出した、不完全な世界」と言っていた。エウセニッティの言う「少し変」とは、この部分についての事だろうか。

「いえ、その──」

 貴方の推測の言葉に、彼女は鈍い反応を示す。

「確かにクリスは、これが生まれたばかりの『力ある書』の暴走だと感じていて、私は前にこうして確かめに来た時に直にその世界の中へと入ってから、そう判断した訳ですけれど」

 彼女は何とも言えぬ複雑な表情を浮かべて、僅かに口篭る。

 内心の違和感をどう口に出せばこちらに伝わるのか。

 自分自身もその違和感の正体をはっきりと掴めてないような、そんな雰囲気のまま、彼女はこう言葉を繋いだ。

「そういえば、前に来た時も感じていたの、思い出しました。暴走している『力ある書』が作り出した世界の割りに、妙にカタチがマトモなんだ、って」

(まともには、到底見えないけれど)

 貴方はそれを示すように、星も月も消え去った空を一瞥。だが彼女は、真剣な表情で首を横に振った。

「そういう事では無いんです。あまり『力ある書』に接される機会の無い【NAME】様から見ればそうかもしれません。でも、そう。この世界はとても整ってる。普通、生まれたての『力ある書』がその世界を展開させた場合、もっと滅茶苦茶になる筈なんです。現世界に喰らいつくように生まれたそれは、辺りを無茶苦茶に取り込んで、混ざり合って、そして崩れるような、そんな不安定で力の弱い世界になります。けれど、ここで生まれている世界は、現世界上にそのままではなくて、あくまで位相の場としてその世界を展開させている。たまに都で影夢の姿が見られるようですが、それも位相で生まれた影が現世界側に僅かに漏れ出ているだけのようですし、それに影夢達の雰囲気も何処かおかしくて、あれが本当に影夢なのかという疑問も少しだけ──」

「…………」

 彼女の中では色々要素が繋がってきたらしく、若干早口に喋り続けるエウセニッティ。が、残念な事に、呟かれる内容は貴方には何だか酷く判り辛いものだった。

 ──つまり、何が言いたいのか。

 貴方が若干辟易した調子でエウセニッティに言うと、彼女は困った顔になった。

「……正直、自分でも良く判りません。ただ、今まで私が見てきた暴走した『力ある書』の生み出した世界とは、少し毛色が違うと、そう感じるだけです。まるで、本当は自分の世界を正しい形で表現できるのに、それが何かが原因で歪になってしまっているような。そんな風に感じるんです」

 もどかしそうにそう言って、彼女ははぁ、と息をつく。自分の言葉が、酷く曖昧で、抽象的な内容になっている事を自覚しているが故の溜息か。

 彼女の話は少々気になる内容のようにも思えるが──しかし、何か具体的な対策を取れるような話でもない気がする。兎に角、用心して進む以外ないだろう。

「……まぁ、今更気にしていても仕方の無い事なのかも知れませんね」

 その一息で気分を切り替えたのか。エウセニッティが次に面を上げた時には、その表情は引き締まったものへと戻っていた。

「申し訳ありません、【NAME】様。無駄な時間を取らせました」

 彼女の謝罪に、貴方は「いや」と短く呟いて答え、そして彼女に何を訊く為に話し掛けたのかを思い出す。

 ──取り敢えず、この宝石の使い方はこれで良いのだろうか?

 貴方は手にした宝石を掲げてもう一度彼女に訊ねると、エウセニッティは生真面目な動きでこくりと頷く。

「はい。宝石が曳かれている方角が、書物の存在する場所になります。この品は構造上、方角は判りますが高さ、上下までは判らないのですけれど、大きな問題では無いと思い──と、【NAME】様。あちらを」

 エウセニッティが都の一角を目線のみで示す。建造物の裾から伸びる影が泡立ち、そこから濃い黒で構成された人影も群れが、むくりと立ち上がるのが見えた。

「そろそろ動いた方が良いようです。彼らが完全に集まってくる前に、なるべく書までの距離を詰めるとしましょう」

 エウセニッティが疾駆のための準備運動として軽く身体を弾ませながら、貴方を見る。この世界に蠢く影の数は、前回の経験から推測するに正に無数無限に等しいだろう。まともに相手をしていてはこちらの身が持たない。『力ある書』を見つけ、閉じてしまえば自分達の勝ちだ。ならば現れ襲ってくる影達と律儀に戦う必要も無い。

 道を標す宝石を持っているのは自分。だから先導はこちらだ。

 もう一度宝石をぶら下げて、方角を定める。行く先には広い大道と、その脇より続々と湧き出し彷徨う影達の姿が見えた。

 都の中は影の化け物達が至る所に存在する。一度踏み出せば、『力ある書』の元へ辿り着くまで休む事は許されない。

 貴方は覚悟を決めると、宝石が示した方角へと向かって全力で走り出した。



 右、左、そして正面。更には上や真後ろから。

 影の化け物達が伸ばす手が、都を駆ける貴方へと迫る。

 左と上からの手は身を低くすることで躱し、右手から伸びてきたモノは武器で軽く往なす。真後ろから迫った影は貴方の一歩後方についていたエウセニッティの裏拳が弾き、そして正面の影は。

(塞がれてる)

 既に大通りから脇の小道へと入っており、道幅は狭い。正面を埋める影の群れは隙間無く、横をすり抜けるのは明らかに不可能。通り抜けるには倒すしかないように思えたが、しかしここで足を止めてしまえば、背後からこちらを追いかけてくる影達に押し潰されてしまう。

 躊躇し、僅かに走る速度を鈍らせた貴方の背中に飛ぶのは、エウセニッティの声だ。

「──【NAME】様! 壁です、蹴って、上へ!」

 壁と、蹴る。そして上。

 その三つの言葉で連想されるアクションを、貴方は殆ど無意識に実行する。

 駆ける勢いを殺さぬまま、側面。道の縁となる建造物の外壁へと飛んだ貴方は、そのまま壁を蹴ってもう一段上へと身を飛ばした。道を塞いでいた影の化け物達の頭上を、その一足で持って辛うじて飛び越える。着地時にバランスを崩しかけるも、その隙を狙った影の一撃は、

「っ、この!」

 続いて飛んだエウセニッティが空中で放った蹴りによって打ち消された。

 その間に貴方は何とか態勢を整えると、改めて走り出す。そのまま路地を脱し、別の大通りへと移った。

「【NAME】様、向かっている方角に間違いはありませんね?」

 ちらちらと後ろを振り向き警戒しつつ、エウセニッティが問うてくる。貴方は影が至近距離に迫っていない事を確認してから、宝石を手から垂らす。だが走りながらであるため宝石は不安定に揺れて、その動きを判断するのは難しい。方角は間違っていないようには思えるが──はっきりとそうだと告げるのは躊躇われるレベルだ。

「少しだけでも良いですから、休める場所があれば良いのですけど。この先にあるのは確か……綺麗な彫像の噴水がある公園、でしたでしょうか」

 そう。『コリィ・ソーンの乙女』と呼ばれる噴水を中央に配した大きな公園がある。

 ──まさか『力ある書』はコリィ・ソーン中央公園の何処かにあるのだろうか?

 そんな貴方の呟きに、一歩遅れた位置を走るエウセニッティは首を小さく傾げて返す。

「でも、本が公園にあると云うのは少しおかしい気がします。原型世界を切り出してそれを元にした位相空間を『力ある書』が構築した場合、書の所在は原型世界で実際に本が保管されていた場所になる場合が殆どです。ですから、もしそこに書があるとしたら、現実でも公園に本が置かれているって事になってしまいます」

 確かにそれは考え難い。となると、書の在処は公園を越えた先、という事になるのだろうか。

「そう考えるのが妥当でしょう。まだ、結構な距離がありそうですね」

 などと話しているうちに、貴方とエウセニッティはつい先刻まで話していたコリィ・ソーン中央公園へと辿り着く。公園を抜ける舗装された道と、その脇に沿うようにして植えられた街路樹の壁、そして道と道の合間を埋める芝生に、公園中央に配された乙女を模した噴水の像。意外なことに、公園の中には影の気配は殆ど無かった。

「……追って来ていた影達も、あちらの──公園の外で止まっているようですね」

 自分達が走ってきた方向を振り返っていたエウセニッティが、訝しげな表情を浮かべて呟く。見れば、今まで執拗にこちらを追いかけてきていた影の大群が、遠く公園の境界でぐずぐずと渦を巻きつつ留まっている。まるで公園の周囲に見えない壁でもあるかのようだが、少なくとも自分が公園に入った時にはそんなモノにぶち当たった記憶は無い。

 何か、影達に公園の中へ入り込めないような理由でもあるのだろうか?

「どうでしょうか。少なくとも私の感覚では、この公園が他の場所と異なる何かがあるようには思えないのですが」

 【NAME】様はどうですか? と視線のみで問われ、貴方は軽く肩を竦めて首を振る。判る訳がない。

「場に漂う気配自体に違いはないのですから、もっと何か別の要因──例えば『読み手』の認識が関わってきている部分なのかもしれませんが」

 そこまで言って、彼女は僅かな苦笑と共に肩を竦めた。

「……なんて、確定できる情報なんて何も無いですから、考えるだけ無駄かもですね。取り敢えず、少し気を抜ける場所にまで来たという事でしょうか」

 正直、それは有り難い。都に侵入してからここに来るまでほぼ走り詰めだったのだ。

 貴方とエウセニッティは、休憩を兼ねて疾走から徒歩へと速度を落としつつ、公園の中央へ移動する。

「【NAME】様。周りが落ち着いているうちに、宝石を。『力ある書』のある方角をもう一度しっかりと見ておきましょう。公園の外に出てしまえば、立ち止まってゆっくり宝石を見る事も出来なくなるでしょうし」

 エウセニッティの提案に頷くと、貴方は宝石を取り出し、改めて『力ある書』の場所を探る。

 手から吊るした宝石は暫くの間ふらりふらりと揺れていたが、徐々に揺れ幅がおかしくなっていき、そして北西の方角へと引き寄せられたような形で停止した。

「【NAME】様、あちらはどういった場所なのかご存知ですか?」

 街については全く詳しくないらしいエウセニッティの問いに、何があったかな、と貴方は小さく首を傾げて己の記憶を探る。

 あちらの方は確か……都でも上流階級の者──グローエス旧貴族達が暮らす邸宅も並ぶ、高級街区が広がっているのだったか。流浪の冒険者には縁遠い地域であり、思い出すのに少しばかり時間が必要だった。

「成程。ということは、『読み手』はそれなりに裕福な家で暮らしている方と、そう考えて良さそうですね」

 何処かの物好きな蒐集家が集めた本が、と云うのがありそうな線か。

「では、行きましょう。ここは安全のようですけれど、この状況もいつまで続くものか判りませんから」

 公園の中へ影が入ってこない理由が判らない以上、ここは絶対の安全地帯として信用できる場所ではないと彼女は言いたいのだろう。

 その意見には貴方も同意だ。進む方角も定めたし、少しの休息も取った。長居する理由も無い。貴方とエウセニッティは宝石の示しに従って、公園を北西へと歩いて行き──、


「…………」

 眼前に広がる光景に思わず息を呑んだ。

「ああ、そうか」

 隣に立ったエウセニッティが、困ったような声音と共に、己の綺麗な黒髪をくるりと指で巻きつつ呟いた。

「成程。影達は公園には入れないようでしたけれど」

 彼女の視線の先。

 公園の境目に沿うようにして、凄まじい数の影の化け物の群れがうねうねと身をくねらせながら、公園の中にいる貴方とエウセニッティを待ち構えていたのだ。



「私達を追いかけるのを、止めた訳では無かったみたい。大人気ですね、私達」

(……全くだ)

 エウセニッティの軽口に、貴方は心底同意の言葉を返す。しかしその口調や声色に反して互いの表情は険しい。公園の境は全て影の化け物達に塞がれており、満足な隙間も無い。影夢達に完全に包囲された形となっていた。

「どう、しましょうか。数もですけど、なんか大物も見えますね……」

 それも、一匹ではない。

 前回侵入時、脱出の際に現れた他の影達よりも一回り大きい影の化け物が、群れの中に二匹、三匹と漂っているのが見える。

(これは、)

 どうするか。兎に角、『力ある書』がある場所へと向かうには、この公園の縁で輪を作る影の化け物達を突破しなければどうにもならないのだが、果たしてこの数を突破できるものなのか。

 打開策が即座に思いつかない。ぐ、と貴方は息を詰めて唸る。

 ──と、そんな貴方の横を、表情を強く引き締めたエウセニッティが前へと通り過ぎた。

 彼女は黒革の両手袋をきつく引き締めると、一度こちらへ振り返り、こう告げた。

「【NAME】様。私が先に飛び込んで場をかき回します。その間に、突破できそうな場所を探して、そこから脱してください」

 つまりは、囮か。

 彼女の強さは既に十分理解しているが、しかしこの数だ。持つものなのか?

 そんな貴方の考えを表情から察したのか。エウセニッティは少し表情を緩めて笑みを作る。

「身の安全を極力優先しつつ多少包囲を乱すくらいなら、何とかなるでしょう。上手く突破口を作れたなら、呼んでください。私も直ぐに続きますので」

 危険な提案だが、他に案もない。やるしかないか。

「ええ。では、行きます!」

 黒髪が跳ねて、白と黒の衣装が公園の縁に蠢く影の群れの中へと飛び込んでいく。彼女の手足から放たれた無形の力が暴風となって影達を蹴散らすが、しかし退いた影の後ろから新たな影が次から次へと現れる。

(……駄目か?)

 先行した彼女の後を追いながら、貴方はじっと彼らの動きを見据えて機を伺う。

 エウセニッティから打ち出される力と、影達の動き。エウセニッティの攻撃力は絶大だが、影の数も尋常ではない。徐々にエウセニッティの動きが封じられていき、攻撃も鈍り始める。

「は、!」

 エウセニッティの呼気が響き、打ち出される拳。放たれた力が、ここで初めて巨大な影の一つを消し飛ばせず、弾かれた。

 それを好機と感じたのか。影達の動きが変化する。エウセニッティを八方から覆い、一気に押し潰す形を作るために、ぞろりと一斉に身を移そうとする。

(──ここだ)

 先刻、エウセニッティの攻撃を何とか受けきった巨大な影。しかし彼女の一撃を完全に弾いたわけではなく、身体は僅かに欠けて、動きは鈍い。エウセニッティを包み込もうと広がった影達の包囲。その大影は包囲の一片を担っており、タイミング良く、大影の後ろには別の小さな影が二つ程見えるだけ。

 貴方は溜めに溜めていた力を一気に解放し、地面を大きく蹴り出す。

 三歩で全速。愛用の武器を握り締めて、突然飛び込んできた闖入者を捉える為に影の群れが伸ばした手を掻い潜り、標的となる大影の化け物へと全力の技法を撃ち放つ!



battle
大災の化身


 貴方の渾身の一撃が大影の中心を貫き、その根元となる『力ある書』の幻に食い込んだ。

 無音の咆哮と共に、書を覆っていた影の塊が砕けて、剥き出しになった書物は地面に落ちる。二度ほど地面を跳ねて転がったその本は、自身が幻の存在である事を示すかのように、あっさりと溶けて消え去った。

 大影一つと、その後ろに在った影二つ。それを屠った向こう側にもう影の姿は無い。影夢の大群の中にぽっかりと開いた空隙。

(──今だ!)

 貴方はエウセニッティの名を呼びつつ、眼の前に開いた空間を一気に走り抜けて、影達の包囲網から脱出した。

 その穴を塞ぐように、慌てて左右から群がってくる影達を反射的な動きで捌きながら、宝石が指し示していた方角へ向けて全力で駆ける。左右後方から貴方を狙って手を伸ばしてきていた影は、走り出して僅かの間もしない内に無くなり、代わりに目に見えない力の波動が、影と自分との間を遮るように飛ぶのを肌で感じた。どうやら、エウセニッティも無事後ろについてきているようだ。

 あとは、このまま一気に『力ある書』が在る場所まで突っ走るだけ。

 普段ならあまり来る事のない、高級邸宅が立ち並ぶ街路を、貴方は飛ぶように駆け抜けた。





──影国の王子──


 不思議な事に、元凶たる『力ある書』の傍に近づいている筈だというのに、高級街区を進むに連れて貴方達に襲い掛かってくる影夢達の数は目に見えて減少していった。

 既に周囲に影の化け物の姿は無く。貴方とエウセニッティはただ無言で街路を走っていた。

(そろそろ、もう一度確かめた方が良いか)

 思い、貴方はエウセニッティに合図をしてから足を緩める。そろそろ『力ある書』との距離がかなり縮まってきている筈だ。クリストファから借り受けた宝石が単なる向きしか示さない以上、ここからは頻繁に『力ある書』のある方角を確認していく必要がある。宝石の使用は走りながらでは難しい為、影達の姿が無くなったのは正直有り難い。

「有り難いのは確かですけれど……でもやっぱり変ですね」

 宝石を取り出した貴方を眺めつつ、エウセニッティが顎に手を添えて小さく傾げる。

「普通、暴走した『力ある書』の世界では、本体となる『力ある書』が存在する場所に近づけば近づく程、影夢の発生率が上がる傾向にあるんです。暴走する書の近く、という事は、より歪みの近くに位置している、という事ですから」

 なのに、今この場所には影の化け物の姿が全く無い。

 考えられる可能性として一番確率の高いものは、実は先刻よりも『力ある書』から遠退いている、という可能性なのだが。

「でも、【NAME】様。ほら、宝石が示す方角は」

 貴方の手から垂れ下がった宝石が傾いた方角は、多少東にずれた程度で、先程とそれ程変わっていない。

 つまり、先刻よりも距離自体は縮まっていると考えて良いだろう。

「なんですよね。だから不思議なんですけれど」

 ふーむ、とエウセニッティは大きく息をつく。

「もしかして、何か思い違いをしているのでしょうか? 私とクリスは、生まれたての『力ある書』が暴走した結果と考えていたのですけれど──でも、まさか」

 エウセニッティはそのままぶつぶつと小声で何事か呟いていたが、結局結論は出なかったのか。また大きく嘆息して、長い髪を左右に振った。

「駄目ですね。情報が足りない。やっぱり、一度『力ある書』を直に見てみない事には」

 彼女の言葉に貴方は軽く苦笑して、こう告げた。

 あれやこれやと考えている間に、さっさと『力ある書』を見つけて閉じてしまえば良い。多少おかしな処があろうと、取り敢えず書を閉じてしまえばこの世界も閉じるのだろう? と。

 貴方の単純明快な答えを聞いて、エウセニッティは相好を崩した。

「ふふ。ええ、その通りですね。たとえ本を閉じただけでは駄目でも、封帯を使えば確実にこの世界を終わらせられます。だから急ぎましょう、【NAME】様」

 貴方は笑みと共に改めて頷きを返し、暗天に覆われた都を歩き出す。先程新たに宝石が指し示した方角には、周りに建つ家屋よりも更に一回り規模の大きな、屋敷とも呼べる規模の邸宅があった。



 長く続く外壁に沿って歩き、その邸宅の正面門前に立った貴方は、手にしていた宝石を眼前まで掲げて、その動きを待つ。

 暫しの間の後、宝石が示したのは、門の奥に建つ屋敷の右手側の一角だ。先程宝石を掲げた時とは大きく方角がズレている。

「どうやら、ここが当たりのようですね」

 横から覗き込んでいたエウセニッティが、ほ、と安堵の吐息をつく。貴方としても「漸く辿り着いたか」と云う気持ちだった。

 後は、屋敷にある筈の『力ある書』を見つけ、封じるだけ。家人などは当然居らぬだろうし、問題であった影の化け物も、理由は判らないがこの場には姿形も無い。つまる処、障害となる物は何も無い。

 貴方は片手は宝石を掲げた状態のまま、空いた片手を門にかけて押し開く。門は何の抵抗も無く後ろへと下がっていき、邸宅へと続く道が開けた。

(さっさと終わらせてしまおう)

 思い、一歩。

 貴方が邸宅の敷地へと足を踏み入れようとした瞬間。


「──ッ!?」

 ば、と。

 貴方の直ぐ隣に居たエウセニッティが、短く息を呑む音と共に目を大きく見開き、跳び退るようにして身体を右側へと向けた。

 そんな彼女の突然の行動に驚き、一体何が、とエウセニッティが険しい表情で睨む先──今まで自分達が歩いてきた方向から真逆となる道の中央を見た貴方は、


『…………』


 そこに、一つの影を見た。

 正に唐突。何の前置きも無く湧き出したその影は、大きさ自体はそれ程でもない。せいぜい人の子供程度の大きさだ。今まで現れた影達よりも格段に小さい。輪郭自体も、格式ばった衣装を着込み、背中に巨大な弓らしきものを担いでいるように見える以外は、ごく普通の子供の影がそのまま立ち上がった風で、際立った異質さは無い。

 ──だが、しかし。

(これは……)

 その影の内側より漂う圧倒的なまでの力の気配は、先程戦った、書の幻を核として存在する大影など比べ物にならない程に強大なものだった。

「これ程の存在概念……あなたは、まさか」

 足を開き、腰を僅かに落として、両の拳を強く握りこんだ姿勢。完全な臨戦態勢を取ったエウセニッティが、強張った声で呟く。

「──この世界を生み出している『力ある書』の、現身? でも、そんな。現身を生み出せるということは、己の世界を完全に掌握して構築できる域まで達している書である証。なのに、こんな不完全で、影夢達ばかりの世界しか顕現できない『力ある書』が、どうして現身を──」

 その声に答えたのか。小さな影は一歩、こちらへと黒色の足を踏み出す。


『ぼくとしても、これは望むべき状況ではない』


 音は無い。

 大気を介さず響いてきた声色は、年若い少年のものだ。

 彼は右手を己の左腰に回し、そこから伸びていた帯びた棒状のものを掴むと、勢い良く引き抜いた。完全に影の一色となっているため正確には判らないが、恐らく腰に帯びていた剣を抜いたのだろう。今までの影達と違い、今眼の前に立つ少年の影は完全に人の輪郭を保ったもの。まるで本体が別の場所にあり、その動きをそのまま眼の前の影が再現しているかのような自然さだ。

 少年は、手から伸びた細長い影を数度、儀礼的に払い、そして眼前。剣先を上方へと立てるように構えると、


『でも、ぼくはあの子と定めた。だから、その義務だけは果たそう』


 無音の言葉と共に、彼は再度その剣を横へと払って見せた。

 その瞬間。彼の手から伸びた黒の剣に、濃厚な力の気配が纏わりつく。剣身に漂う力の波は凄まじいの一言に尽き、そのあまりの強さに、無形無色の力の動きが残像となって目に焼きつく。

「【NAME】様、下がって! あれは、今の私達じゃ──」

 エウセニッティが今までに無い緊張の孕んだ声で叫ぶ。

(だが、そうは言っても)

 折角ここまで来たというのに、下がる訳にもいくまい。

「ですが、『己の世界の中にある現身』は本当に絶対的な存在で、正に神が如き力を……、く、来ます!」

 焦りを帯びた彼女の態度に戸惑いつつ、貴方も慌てて武器を抜く。影色の少年は剣を横へと払った姿勢のまま、一歩、二歩とこちらへと歩み寄り、そして。


『例え歪んでいるとしても、あの子の世界を閉じさせはしない』


 言葉と共に、少年の身体が霞んだ。

 そして瞬き程の間も置かず、既に彼の影はこちらの懐にあった。

「!?」

 唖然とする貴方に向けて、影は手にした剣を横薙ぎに払う!



battle
影国の王子


 突き出された黒色の剣。

 そこから涌き出る力の奔流は十の威力となって荒れ狂い、貴方は大嵐に巻かれた小さな木の葉のように吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。

「っ、痛──く」

 衝撃に痺れ、息もできない。だが、このまま寝転がっていれば次の攻撃には耐えられまい。貴方は己が武器を支えとして、強引に身を起こそうとする。そんな貴方の眼前には、貴方と同様全身ぼろぼろとなったエウセニッティが両肩を大きく上下させつつ立っている。

「……【NAME】様は、そのままで、居てください。私が、」

 何とかします。

 乱れた息を整えながら彼女はそう言って、一歩前へと進み出る。

 ──無茶だ。

 武器を握る手に力を込めつつ、貴方はそう呟こうとするも、しかし先程の一撃の衝撃が抜けきらぬ身体では、掠れた呼気が零れるだけだった。

 こちらを背に立つエウセニッティの向こう側には、戦闘前から一切揺らぎない影を維持したままの少年が立ち、手にした剣をゆっくりと構える。


『無駄だよ。ぼくはこの世界そのものだ。その内側にいるきみたちには』


「成す術は無い、というのが本来の形なのでしょうけれど、ね。何事にも、例外が存在するものでして」

 こちらからは背を向けているため、実際の表情は判らない。だが、響いたエウセニッティの声音から、どうやら彼女は笑みを浮かべているらしいのが知れた。

(何か、策があるのか?)

 しかし、先程の一戦で判った彼我の戦力差は圧倒的だ。エウセニッティに何か隠し玉があるとして、それが通用する相手なのか。

 貴方の問う視線に気づいたのか、エウセニッティが一瞬だけ振り返る。

「ご心配なさらず。それより【NAME】様、お願いがあるのですが──」

 そこで彼女は言葉を切ると、僅かの間を空けて、こう告げた。

「──私の姿を見ても、驚かないでくださいね?」





──鬼神が如く──


「古き英知を示す蛇。ケリュケイオンが穿つは封路。

 身も無く、根も無く、魂も無く。

 全て封ずは矍鑠たる身、其は人身の器なり」

 


 朗々と響く、エウセニッティの声。

 耳に届いたその声は、鼓膜をじんと痺れさせるような力強さを持ち、轟いて場の大気を圧倒する。


 

「しかしてその身は虚ろに充ちて、この世この場に砕けて果てる。

 我が身に主と力あり。封路標すは杖の支なれど、

 真に我が身を統べるは、主我の意思のみ。

 故に見よ──」

 


 叫びと共に、こちらに背を向けるエウセニッティの輪郭がぶれる。

 黒髪なびく細い身体に重なるように、何か、奇怪な造形の影が立ち昇り、


 

「今、顕現せしむるは、我が封路無き力!

 

 ──禁則封印、解除します!」

 


「うわ」

 と、その様を見た貴方は、思わずそんな抜けた声を上げていた。

 眼の前。つい先程までエウセニッティが立っていた場所に、身長数メートルはあろうかという、青とも緑とも言えぬ体色の巨人が居た。

 一際長く伸びた両腕の先は四つ指で、爪は大鎌かと思うほどに長く反っている。背中からは蝙蝠の羽をより頑丈かつ奇怪にしたかのような一対の大翼があり、こちらに向けられた頭部の前方、恐らく目のある場所には煌々と輝く赤い大玉が二つ、貴方へと焦点を合わせている。

《【NAME】様》

 突然響いてきた声は、何か薄く震える膜をいくつか経由して発せられたかのような奇妙な声音。一瞬何を言われたのかと考えて、それが己の名である事と、そして、

(エウセニッティ、か?)

 かなり歪んで聴こえたその声に、エウセニッティの特徴が残っている事に気づいた。

《【NAME】様、聴こえていますでしょうか》

 もう一度巨人から響いてきた声で、貴方はその事を確信する。だが、眼の前に立つ不気味な巨人と、美しい黒髪を持つ細身の姿がどうしても重ならない。

 故に、貴方はこう呟いた。

 ──本当に、エウセニッティなのか、と。

 対して、巨人は大きな頭部をゆっくりと縦へと振りつつ、こう答えた。

《はい、私です。正確には、『本当に、エウセニッティ』ではなく、『本当の、エウセニッティ』ですけれど》

 本当の、と言う事はつまり。

《今まで【NAME】様の前で見せていた姿が借り物です》

「…………」

 むぅ、貴方は喉の奥で唸る。

 あの見目麗しい黒髪の娘の本性がこれとは。正に開いた口が塞がらない。

《一応、いつも【NAME】様に見せているあの姿は、今の私の姿を人の形に例えた場合、あんな感じになるという事でして。……その、詐欺という程では無いと思うのですが》

 愕然とした貴方の顔から、その心情を正確に読み取ったらしい巨人の言葉には、若干の非難の色が混ざっている。いかんいかん、と貴方は気を取り直すように首を大きく数度振って、改めて問い掛ける。

 一体、正体は何なのかと。

《何者なのか──は正直【NAME】様には説明し辛いですね。あなたの世界に存在する者を基準で考えると、恐らくは芯属や鬼に近い者と考えていただければ》

(……それは)

 完全に『化け物』と言って良い存在なのではなかろうか。

 露骨に顔を引きつらせて一歩下がった貴方に、

《いえいえ、あくまでも例えれば何に近いかという話でして──ではなくて、今はそんな事を話している場合ではないと思います》

 巨人は強引の話を切ると、貴方から視線を外し、前方を見る。

 その先には。


『きみは、内側に自分の世界を持っているのか』


 今まで何処か茫と響いていた少年の声には、僅かばかりの緊の色が混じっていた。

《ええ。ですからあなたの世界であるこの場所でも、私とあなたは同じ舞台に立っていると云えるでしょうね》

 巨人はそう言って、長い両の腕をゆっくりと構え、背の翼を大きく広げる。

 同時に相対する漆黒の身も動き、手にした厚みの無い剣身が慎重に構えられる。その仕草からは、少年が巨人を警戒しているのが見て取れた。

《【NAME】様》

 巨人は視線を貴方に寄越さぬまま、名前だけを呼ぶ。

《あの現身にダメージを与えるには、相応の力が必要です。私にはそれが扱えますが──それにはあなたの協力が必要です》

(協力……?)

 具体的にどうすればいいのか。

《最後にタイミングを合わせてください。上手くやれば、少なくとも何らかの打撃は与えられる筈──》

 巨人の声がそこで途切れる。視界の正面、影の少年が大きく一歩、こちらへと踏み込んでくるのが見えた。



battle
影国の王子


「“開け、我が審象の門[アビガルゲイト]”」


 両腕を交差させて掲げた巨人が、一際強い文句を叫ぶ。

 次の瞬間。戦場の真上、上空十数メートルの位置に大きな裂け目が生まれ、そこから巨大な門が姿を現す。

 複雑な紋様が描かれた硬質の大扉。空に倒れた形──上部を北、下部を南として現れたその門を塞ぐ三本の閂が轟音を立てて抜け落ち、地につく前に砕けて空中に溶けていく。

 ぎしり、と軋む音を立てて扉が開き始め、その奥に存在していた何かが重力に曳かれる様にして、こちら側へと零れ落ちた。

 門の向こうから現れたのは、稲光を放つ巨大な球体だ。

 月光も無く濃い闇に閉ざされた都にあって更に暗色。黒ですらなくもはや無に近い彩色のその球体は、門の真下──手にした王剣と背の大弓で持って、縦横無尽に貴方と巨人を攻めていた小さな影へと落下する。

 上空より降り寄る、巨大な球体。

 唐突に現れた門から零れ落ちた謎の無色から、影の少年は全力で逃れようとして、

「させるか!」

 その動きを封じるように放った貴方の全力の一撃が、彼の回避運動を僅かに阻害した。


『────』


 稲光を放つ球体は、門が空中から消滅すると同時に突如速度を上げて地面に落下。触れた範囲をごっそりと削り取り、完全なる無へと変換した。

 そして円形に大きく抉られた地面の端には、左肩から先を失った影の少年が、既に存在しない己の手の位置に視線を降ろしつつ立っていた。

 元々単なる影。しかも、彼はこの影の世界の現身である。故に少々の攻撃で身を削られようと、次の瞬間には元の姿に戻る筈であり、実際今までの戦闘でも、こちらの攻撃で身体を削られ失おうとも、即座にその部分を復元させていた。

 だが、今の一撃で失った左腕は、先程から一向に元に戻る気配が無い。先刻放った巨人の一撃は、あの影の治癒能力を阻害する力でもあるというのか。

 影の少年は顔を上げると、まだ身構えたままの巨人を見上げてこう呟いた。


『だけど、まだ終わりじゃない』


 影の気配が変化する。

 先程までよりも更に強い力が、残る右腕の先より伸びた剣に宿る気配。どうやら、このまま引き下がってくれそうにない。

《【NAME】様》

 その力の波動に圧倒されかけていた貴方は、自分の名を呼ぶ声に我に返る。

《【NAME】様。宜しいですか?》

 小さく、貴方にだけ聴こえる程度の声音で、エウセニッティが囁いてくる。

 貴方が無言で頷くと、巨人は影の少年へと身体を向けて身構えつつ、言葉を続けた。

《ここは私が彼を抑えます。その間に、【NAME】様は屋敷の方へ。『力ある書』を探してください》

「…………」

 思わず、影の少年の動きを警戒していた視線を、横に立つ巨人へと向ける。

《戦術としてはこれがベストです。私がどれだけ彼にダメージを与えたところで、彼を完全に倒す事はできません。何故なら、彼はこの世界そのものだから。言ってみれば、彼は単なる端末でしかないんです》

 つまり、倒すには。

《倒す、と言いますか、彼を完全に止めるにはこの世界を顕現させている『力ある書』を閉じて、封帯で完全に封じるしかありません。だから》

 行け、と。

 言いたいことは判るが──しかし彼が自分を見逃してくれるだろうか。

《そこは、私を信用していただくしか。精一杯頑張ってみますので》

 巨人の両腕が上方へと振り上げられ、独特の形で交差する。その先端に力が生まれ、

《──では、行きます》

 エウセニッティの叫びと同時に、また空中に巨大な門が生み出された。

 閂が抜き放たれ、硬質の扉がばっくりと開く。その中からせり出してきた無色の球体は、先程と比べ小さいながらも今度は無数。効果自体も違うのか、稲光を放ちつつ地へと──影の少年へと落下したそれらは彼の周囲に展開すると、空間を押さえつけて、軋み、歪ませる。先程の一撃とは違い、攻撃よりも動きを封じる事に特化したもののようだ。

《今です、【NAME】様!》

 云われるまでも無い。貴方は彼らから背を向けると、既に半ば開かれていた正面門を潜り、屋敷の玄関口へと向かって全力で走り出した。



 背後から聞こえる戦闘の轟音を振り切るように、貴方は庭を駆け抜け、邸宅の中へと飛び込む。

 この世界にある他の建物は、外見は本来の世界通りでも中は単なる黒の単色、所謂張りぼてに近いものであったが、しかしこの建物だけは例外のようだ。内装があり、調度がある。恐らく元の世界と同じなのだろう。違うとすれば、この邸宅に暮らす人間が欠けている事くらいか。

「さて……」

 ぐるりと周りを見渡し、貴方は懐から宝石を取り出す。振り子のように揺れる宝石をじっと眺めて、


『たす……て』


 微かに聞こえてきたそんな声に、思わず息を止めて顔を上げる。

 しかし、声が響いてきた場所は恐らく上の階だ。宝石の向きと、階段の位置が真逆である事に舌打ちしつつ、貴方はどちらに行こうかと迷い、まず先に一階を調べる事に決める。

 宝石の標に従って屋敷を歩き、廊下を抜けて、扉を開けた。

 宝石が指し示した部屋──恐らくは応接間であるらしいそこで、細かく位置を確かめた結果。宝石が示した地点には、花瓶が一つ置かれているだけで、他には何も無い。

 外から見る限り、屋敷は二階建てだった。

(つまり、上か)

 部屋を出て、階段のあるエントランスに戻る。二つに折れ曲がる形で伸びた階段の一つを上り、踊り場で方向転換。更に上へと昇ろうと階段に一歩足をかけた所で。


 二階の廊下に、一人の少女が立っているのに気づいた。


 その少女は、今までこの世界で出会った影ではなく、完全な色を持って存在していた。

 突然の事に息を呑み固まった貴方の眼の前で、虚ろであった少女の瞳が、階下の貴方へとゆっくりと焦点を結ぶ。

 惚けていた表情に色。不満、怒り、憤慨。主に反抗の感情に染まった色が浮び、引き締められた唇が小さく動く。

 呟かれた言葉は、こうだった。


「あたしが、たすけてあげる。このくらい、さむいばしょから、あなたを」


 言葉と同時、邸宅の外から轟音が響き、窓の向こうで影色の一閃と、無色の稲光が飛ぶのが見えた。


「だから、あたしに。あなたを、ここから──」


 続いて、地面が大きく揺れる。貴方は僅かに身をよろめかせただけで済んだが、しかし廊下の縁に立ち、こちらを見下ろしていた少女は、ふらりと完全にバランスを崩し、こちらへと落下してくる。

 ──危ない。

 思い、貴方は慌てて彼女を受け止めようとするが、少女の身体は貴方にぶつかると同時に、まるで幻であったかのように素通りし、そのまま薄れ、溶けて消滅してしまった。

「…………」

 少女を受け止める姿勢のまま暫く固まっていた貴方は、は、と大きく息をついて緊張を解き、身を崩す。

 一体彼女は何だったのか。

 あれが、クリストファが言っていた『力ある書』に取り込まれたという『読み手』なのか?

 疑問に思いつつも、外からまた響いてくる凄まじい振動に貴方は一度首を振る。恐らくこの轟音と振動は、エウセニッティとあの影の少年が繰り広げる戦闘の余波だろう。

 エウセニッティの別れ際の台詞から推測するに、彼女の全力を持ってしても、あの影の少年を完全に抑え切ることは難しい筈だ。早く『力ある書』を見つけないと。貴方は半ば惚けていた意識を引き締めて、階段を駆け上がる。

 宝石が示していた位置はある程度覚えている。貴方は走る速度を緩めず二階の廊下を掛けて、一つだけ開いていた扉を潜り、とある一室へと飛び込む。

 果たして、そこに書はあった。

 先程の少女の自室なのだろうか。年頃の娘らしい装飾物や調度品に溢れた部屋のテーブルで浮ぶ一冊の本。

 黒色の表紙。表題は『かげくにのおうじ』とあり、その下には正装を身に纏った小さな人影が一つだけ描かれていた。

(これが、)

 毎夜展開されるこの異質な封都の根源か。

 書物はばらばらと音を立てて、独りでに頁を繰る。貴方はそれに慎重に近づくと、懐からとある品を取り出す。それは『力ある書』の位置を探るという宝石とは別に、クリストファから預けられたもう一つの器だ。

 貴方はそれを両手に構えると、一拍の間を置いて。

「──は」

 短い呼気と共に、宙に浮んでいた本を閉じ、そして手にした革帯を無茶苦茶に巻きつけた。



 それと同時に、周囲の景色が一度何もかも消え去る。

 そして次の瞬間、気配の質だけが明確に異なった、全く同じ景色によって視界内にあったものがすべて塗り替えられた。





──封都アグナ・スネフ 高級街区──


 既に無人ではない邸宅。『力ある書』があった一室から、家人に気づかれぬよう家の外へ脱出するには、二階から下へと飛び降りる他無かった。

 音を立てぬよう苦労しながら窓を潜り、空中へと身を躍らせる。

 暫しの浮遊感の後、着地。衝撃に痺れる足を抑えながら、貴方は邸宅から離れよう歩き出す。

 そこへ、

《ご苦労様でした、【NAME】様》

 響いてきた独特な声と、そして眼の前に聳える正に化け物といった造形の巨体。

 ──コレは、あの黒髪の娘エウセニッティだ。

 そう判ってはいても、一瞬顔が強張り、身体が硬直するのを止められなかった。

《……なんですか、その反応。正直、ちょっと傷つきました》

 驚くな、という方が無理がある。

 というかどうしてまだその姿なのか。貴方はきょろきょろと周囲を確認しつつ訊ねる。

 既に『力ある書』は閉じた。今のこの都は、先程までの影の化け物が跋扈する異界ではなく、ごく普通の、いつものアグナ・スネフである。

 そんな街中に、どう見ても化け物──しかも亜獣以上に人々に恐れられる鬼種にも似た外見の存在が居るのは非常に宜しくない。一般市民の方々や、都内警邏の者達に見つかればどうなる事か。

《いや、その、それは私も判ってはいるのですけれど、実は》

 化け物の手が動き、己の顎をぽりぽりと掻いてみせる。その化け物じみた見た目らしからぬ酷く人間じみた仕草に、凄まじいまでの違和感を覚えながらも、貴方はまさかと口を開く。

 ──元の姿に戻れない、とか?

《あ、凄い。その通りでして》

「…………」

《……黙らないでください。一度禁則封印を解いてしまうと、もう一度クリスに掛けて貰わないとダメなんです。だからその、取り敢えず私は一度ここから離れますので、申し訳ありませんが、【NAME】様はその封じた『力ある書』をメイファリアの船のほうへ持ってきて頂けませんでしょうか?》

 それは構わないが……ここを離れるのは良いが、一体どうやって離れるつもりなのか。まさかその姿のまま都の外まで歩いていくと? いくら深夜とはいえ、その威容だ。誰にも見つからない筈がない。

《流石にそれをやってしまいますと、私がこの街の治安組織に追いかけられてしまいますので、ちゃんと見つからないように帰ります》

 言って、エウセニッティはちょんちょんと上方向を指差すと、

《こちらから、ね》

 次の瞬間、突然湧き出した轟風が彼女の巨体を包み込み、そのまま空中へと運んだ。

《では、お先に失礼を。メイファリアでお待ちしておりますね、【NAME】様》

 その言葉と共に蒼色の魔人は夜の空へと舞い上がり、荒ぶ風が収まる頃には、その姿は夜空の向こうに消え去りつつあった。

「…………」

(──なんとまぁ)

 どうやら、空まで飛べるらしい。何でもありである。

 貴方は暫くの間、茫然とエウセニッティの去った黒色の夜を眺めて、そして大きく息をついた。



 色々と長引いてしまったが、夜のアグナ・スネフを徘徊し都の人々に恐れられていた影の化け物は、これでもう出没しなくなる筈だ。

 早速、斡旋公社の方にこれまでの経緯を簡単に──面倒な部分は省いて報告。状況が収束したことを確認次第、相応の色をつけた報酬を支払うという話に貴方は頷くと、公社を後にした。

 何気なく背嚢に仕舞っていた本を取り出す。革帯でぐるぐる巻きにされた、黒表紙の書物。今回の事件の元凶とも云えるそれを、自分が今持っている。少々気味が悪いが、あの図書館へと届けるまでの辛抱だ。

 ふと、都の空を見上げる。徐々に白み始めた空は、そろそろ朝が近い事を示していた。

(……取り敢えず、帰って寝るか)

 この件に絡むようになってから深夜に出歩く事が多くなり、お陰で翌日はすっかり昼夜が逆転してしまうような事もあったが、それも今日で終わりだ。貴方は疲れの溜まった身体を引き摺るように、宿へと向かって歩き出した。

司書   その世界は

──メリウスタワー・エントランス──


「これが、ね」

 アグナ・スネフの近く。前回と同じように外で待っていたエウセニッティに案内され、幻の図書館へと足を踏み入れた貴方は、エントランスに並ぶソファに座り、テーブルを挟んで対面に座る青年、クリストファの呟きを聞く。

 貴方と彼の間に置かれた横長のテーブルの上には、革帯を乱暴に巻きつけられた一冊の本がある。型は大き目で、表紙に書かれた絵と文字から察するにどうやら絵物語の類であるらしいその本を、クリスは両腕を組んだまま睨むように見て、そして一つ大きく息を付く。

「どうでしょう、クリス?」

 彼が気を緩めたのを見計らって、隣のソファに腰を降ろしていたエウセニッティが口を開く。眼鏡を外し、目元を指で揉み解していたクリスは、その問いに苦い表情を浮かべたまま小さく頷いた。

「成程。エニィの言っていた通りだ。これは……違うね」

(違う?)

 彼の言葉に、貴方は怪訝な顔を浮かべて首を傾げる。

 まさか、この本が探していた『力ある書』ではないと言うのだろうか。だが、この本を閉じると同時に、封都を覆っていた異質な世界が消え去ったのは確かだ。ならば、これが元凶で間違いない筈だが。

 そんな貴方の疑問に、クリスは一度首を横に振ってから、更に縦に振るという曖昧な仕草。

「いや、うん。その部分が違う、と言いたい訳じゃないんだ。そこは間違いないんだけれど──どうも別の部分で、僕達は少しばかり勘違いしていたようでね」

 一体、何を勘違いしていたというのか。

 貴方の促しの視線に、クリスはテーブルの脇に置かれていた陶器の器に手を伸ばしつつ言葉を続ける。

「僕等は最初、生まれたてで不完全な『力ある書』が、近くに居る人間を仮の読み手として適当に取り込んで、それを基に自分の世界を暴走させていると。そう考えていたのだけれど」

 そこまで言ってから、手にした紅茶が注がれた器を傾けて少しの間。そして、彼はこう繋げた。

「こうして直に見てみると、その考えが正解じゃ無かった事が良く判る。これはどう見ても、未熟な『力ある書』なんてモノでは無いよ」

 言って、クリスはとん、とテーブルに置かれた本を空いた片手の人差し指で突いてみせる。

「これは、己が世界を内に確固として持ち、熟成させ、完成させている──かなりの力を蓄えた立派な『力ある書』だ。書き手の意思と、以後の歴史、描かれた物語に対する人々の想念がはっきりと感じられる。このメイファリアにある『力ある書』達──それも容易く現身を起こせる程に力を持った書物達にも、全く引けを取らない位置にある本だよ」

 それ程凄いものなのだろうか?

 貴方はまじまじと机に置かれた本を覗き込む。ぐるぐると巻きつけられた帯の向こうに見えるのは古ぼけた表紙と、子供向けらしい簡略化された絵と文字のみ。それだけを見るならば、そこいらにある古本にしか見えないのだが。

「外見だけでは『力ある書』が持つ力を計る事は出来ないよ。今は封帯も掛かっているから、その力を正確に見抜くのはエニィでも無理な筈だよ?」

「……力不足で申し訳ありません」

 クリスのからかいの視線に、彼の隣に座るエウセニッティが微妙な表情で頭を下げる。同じメイファリアに住まう二人であるが、やはり主人と助手の違いか、力量にはかなりの差があるらしい。

「で、だね。この本が未熟な『力ある書』ではなく、成熟した『力ある書』であった場合、僕等が最初に立てていた推論が結構根元のほうから崩れてしまうんだよね」

 金髪の青年は、そういって己の頬を掻いて苦笑する。

 確か、クリスは最初、自分にこう説明していた。

 曰く──生まれたばかりの『力ある書』が誰かに開かれ、まだ幼く不安定な状態である『力ある書』が『読み手』を内に中途半端に取り込んで、己の世界を解放させているのが原因である、と。

 だが、今眼の前にある本は、しっかりと自身の世界を維持し、力も十分に蓄え、歳も相応に経て安定した『力ある書』だという。

「ここまで高いレベルにまで到達した『力ある書』が、あのような不完全な世界を構築したり、未成熟な世界の欠片の証である『影夢』を撒き散らすなんて、本来は有り得ないんです。『読み手』すらも無しに、自身の世界を正しく表現できる──『影夢』を生み出さないか、生み出すような状況に至る前に世界を広げる事を止めることが出来るのが、この段階に達した『力ある書』ですから」

 エウセニッティの静かな説明に、貴方はふむと一息。つまり、クリスの予想は『力ある書』が事件の原因である事には間違いないが、そこに至るまでの道筋に誤りがあった、という事らしい。

(……だけど)

 ならば、様々な部分が欠けた不安定な無人の都がアグナ・スネフに重なるように発生し、そこに『影夢』とやらが大量に発生していたのは、一体どういう理由によるものなのか。

「うん。だから、逆なんじゃないかと思ってね」

 逆? と首を傾げた貴方に、クリスは確信の籠もった頷きを返す。

「そう、逆だ。最初、僕等は不完全な力量しか持たない『力ある書』が、強引に『読み手』を取り込んで、己の世界を外へ発現させようとしているんじゃないかと、そう考えていた訳だけれど──実際は、不完全な力量しか持たない『読み手』が、強引に『力ある書』を読み解いて、書の世界を外へと発現させようとしているんじゃないか、ってね」

「…………」

 その言葉に、貴方は少しの沈黙。

 彼の結論と、今までクリスやエウセニッティから聞いていた『力ある書』とそれに関する知識。それらを照らし合わせた後、こう呟いた。

 ──それは、有りなのか?

「有りだよ。この形なら『力ある書』がどれだけ力を持っていようと、表現する『読み手』側の認識や理解力の不足等で歪みが出てしまうから、ああいう状態になってしまう事も十分考えられる」

「…………」

 どうも納得し難い。

 今までのクリス達の話を聞いた印象では、『読み手』は酷く立場の低い、云わば『力ある書』達が自身の世界を外へ現す為に使う、単なる道具であると考えていたのだが、その認識が間違いであったと?

「それは、『読み手』として何の才能もないごく普通の人間を、暴走した『力ある書』が取り込んだ場合だよ。実際のところ、『力ある書』と『読み手』の関係は『読み手』の方が数段上になる。というか、元々『力ある書』は単なる本──人々に読まれ、所有され、愛される為に生まれたモノだからね。彼等こそが道具。『読み手』が主で、『力ある書』達が従。主人に請われて己が世界を広げるという考えが、共通認識として彼等の間に存在する。暴走したり狂ってしまっているモノは別だけどね」

 そういえば、前にこの図書館で出会った茨姫も、自身の『読み手』らしいクリスをとても慕い、仕えようとしているようだった。それは『図書館の主』に対する態度だと思ったのだが、正確には『己の読み手』に対する態度だったという事か。

「ただ、『力ある書』達は基本的に自分の世界が正しく現される事を望むから、未熟な『読み手』が半端に世界を現そうとしても、普通は拒む。だから、このパターンでああいう『影夢』が大量に生まれる世界が現れる事は稀なんだけど。……『読み手』の才能が偏ってるのか、本に対する思いが強すぎて、『力ある書』がそれに引き摺られてしまったか。まぁ、その辺りの事情は後で調べるとして、問題は」

 クリスはそこで言葉を切ると、ひょい、とテーブルに置かれた本を持ち上げると、表紙と視線を貴方の方へと向ける。

「君が『力ある書』をここへ運んできてくれたら、直ぐに『力ある書』から『読み手』を引っ張り出す作業に入るつもりだったんだ。こちらは一応専門家だし、この作業自体は簡単に終わる……筈だったのだけれど、『力ある書』が『読み手』を自分の世界に取り込んでいるんじゃなくて、『読み手』が自身の意思で『力ある書』の中へと入り込んでしまっているとなると少し話が違っていてね」

「【NAME】様。以前にお話したと思いますが、私達は貴方からしてみれば半ば幻に近い存在です。この世界が持つ基盤となる概念から外れた存在概念を持つ者。ですので、空想や思念により生まれた『力ある書』が広げる世界に対しては相応の親和性を持ちますが、繋がりを持つ『読み手』が、空想の世界に積極的に混じってしまうと、所謂余所者である私達では干渉が難しくなるんです」

 ──それは、つまり。

 エウセニッティの補足から導き出される答えは単純。思わず顔を顰めた貴方に向かって、クリスはにこやかな笑みと共にこう告げた。

「だから申し訳ないが、君の力を改めて借りたいんだ。『読み手』と同じ世界に属し確固たる実体を持つ君ならば、その力は通じる」

 予想通りの言葉に、貴方は小さく嘆息。

 正直、ここまでわざわざ『力ある書』を運んできただけでも十分なサービスだと思うのだが。仕事でもないのに、そこまでやる義理は、

「ああ、一応報酬は出すよ。お金を払う、という訳にはいかないけれど、逆に言えばお金に代えられないモノを君に渡そう。これでどうかな? 繋がりを多少弱めてくれる程度で十分だし、それに君も、本の中に人が閉じ込められたままというのを見逃すのも寝覚めが悪いだろう?」

 閉じ込められた、といっても先ほどのクリスの言い分を信じるならば、自分からその中に篭っている風でなかっただろうか。

 態々好き好んで中に入っている奴を、いちいち手間暇掛けて引っ張り出すというのも馬鹿馬鹿しいような気もするが。

(……まぁ、良いか)

 乗りかかった船、それに報酬とやらも多少は気になる。頷きを返答とした貴方に、クリスは「感謝する」と短く呟いて立ち上がる。

「では、準備を始めるとしよう」



「行きます」

 エウセニッティが合図となる声を放ち、両の手を大きく広げる。それを合図にして、貴方とクリス達を中心にして半径10メートル程の間を開けて、淡く輝く巨大な壁が立ち昇り、周囲を断絶し始める。

 壁の範囲内となる場所にあった物──例えば先程まで座っていたソファやテーブル、本棚は既に全て別の場所へと移されている。以前エウセニッティが戦闘に使っていた無形の力は、ああした重量のある物の運搬にも役立つものであるらしい。

 そんな事を思い返している間に、生まれた壁が僅かに湾曲しつつ繋がり、空間を完全に断絶する。所謂結界。内側でこれから起こるである事を外へ洩らさない為の壁だ。

(しかし……)

 初めてこの図書館を訪れた時に、クリスは容易く周囲の空間を作り変えて切り離し、戦いの被害がこの場所に影響しないようにしていた。今回もその技を使えば、わざわざソファ等を除ける手間を取る必要も無かったのではないか?

「まぁ、そう出来れば楽なのは確かなんだけどね」

 何も無くなった床の上に帯を巻かれた本を置いたクリスが、そんな貴方の問いに僅かに苦笑する。

「あれは僕の持つ本の世界と杖の力を使って作る場所だから、今回のような場合には向かないんだよ。先刻も言った、『読み手』の存在概念が混じると僕達の力が云々、っていうのと近い話。あれこれ説明すると長くなるからしないけれど、まぁ、取り敢えず無理と考えてもらえば良いよ」

「…………」

 何ともいい加減な説明であるが、詳しく説明されたとしてもやはり理解できないような気もする。貴方は無言のまま肩を竦め、クリスはその態度を了解の意と取ったのか、貴方から視線を外し、床に置かれた本を見下ろす。

「じゃあ、今からこの封印を解くよ。開封と同時に『力ある書』は一気に自分の世界を広げようとする筈だけれど、それは僕が止める」

 簡単に言うが、そんな簡単に出来るものなのか?

 胡散臭げな貴方の問いに、クリスは「勿論」と軽く答える。

「伊達に『力ある書』を蒐集するこの船の主を務めている訳じゃないよ。ここは僕の領域だしね、世界を広げられないようにするくらいは容易い。けど、それだけじゃ何の解決にもならない。問題は次のアクション。本の中から根っこの部分──この『力ある書』の核の部分を外へと引きずり出して、そこから『読み手』を分離する作業」

(核を、外へと引きずり出す?)

 何だかそれは、先程の『世界が広がる』という現象よりも更に危険な状態になっている気がするのだが。

「正解。要は『現身』よりも濃い、『力ある書』の根源の部分を強制的に表へ引っ張り出す事になるから、危険度はかなり高い。一応もう一つ、沈んでいる『読み手』と接触する手段もあるんだけど、そちらは『力ある書』の中に自分達が飛び込んで最深部を目指すっていう、核を引っ張り出す手と比べたら洒落にならないくらい面倒で難度の高い作業だから、こちらは論外」

(どちらにせよ大仕事、という事か……)

 大して考えもせずに協力の話を受けたのは失敗だったかと内心舌打ちしつつ、考える。

 話の流れから察するに、自分はその『核』とやらと戦うという事になるのだろうか。

「そうなる。現れる存在は、君やエウセニッティが偽りのアグナ・スネフで戦ったっていう影──多分、この絵物語の主人公と同等か、より濃い存在として現れる筈だよ」

 ──ちょっと待て。

 クリスのその言葉に、貴方は顔を引きつらせる。

 あの影の都で出会った黒影の王子。その力は正に絶大で、常軌を逸した力、まるで伝説に聞く芯属にすらも届くかという程だった。あの時、本来の姿を現したというエウセニッティの力を持ってしても時間を稼ぐのがどうにかといった相手。ただの人間である自分には話にもならない。

 なのに、件の核とやらはその王子よりも『濃い存在』であるらしい。そんなもの相手では、まともな戦いにすらならない。

「ああ、その辺りは大丈夫。君がその現身と戦ったのは、彼の世界の中でだろう? 今から君が相手をしてもらう『核』は、こちらの──このメイファリアが構築している世界側に引っ張り出されたモノだからね」

 クリスは何やらフォローらしき事を言っているようなのだが、それがどういう流れで『大丈夫』に繋がるのか判らず、貴方は難しい顔のまま黙り込む。

 それを取り成すように口を開いたのは、少し離れた場所に立つエウセニッティだ。

「以前茨姫の件の時にもお話した事ですが、『現身』は自分の世界の中では正真正銘の神が如き力を持ちます。けれど、己の世界の外へと出てしまえばその限りではない、という事です。メイファリアが持つ力の影響も受けますので、その能力はかなり制限される。【NAME】様でも十分──とまでは言いませんが、それなりに相手に出来るレベルにまで力が落ち込む筈です」

(制限、ねぇ)

 それがどの程度のものなのか。正直な話かなり不安だが……今更どうこうと騒いでも仕方が無い。貴方は一つ嘆息をついて、覚悟を決める。

 そんな貴方の様子にクリスは小さな笑みを一瞬だけ浮べ、そして床に置かれた書へと鋭い視線を向けた。

「さて、始めようか」

 短い呟きの後、クリスは手にした双頭蛇の杖をくるりと回し、柄尻で持って置かれた書物の表面を、どん、と突いた。

 瞬間、本を包んでいた革帯が弾けるように解ける。封印は失われ、その内側から膨大な勢いを持ってして広がろうとする世界を、


「黙れ」


 淡々と告げる言葉と共に。

 くるりと反転させた杖の先端から生まれた、まるでそれ自体が質量を持つかのような圧倒的なまでの波動が、今正に場に顕現しようとしていた一つの世界を容易く押しつけ、封じ込めた。

「────」

 それはどれだけの力の差によって生まれた状況なのか。それすらも把握できずに、貴方は我知らず息を呑んだ。

「ふむ、こんなものかな」

 片手に構えた杖の先を本へと突きつけたまま、クリスは空いた左手で己の顎を軽く一撫で。そして杖の端から顔を出す二匹の蛇を本の表紙に強く押し付けると、貴方には聞き取れぬほどに小さく速い声音で何事かを呟く。すると、蛇の両脇より生えた翼からするりと輝く帯のようなものが数本現れ、それらは絡み合いながら本へと伸びて、そして音も無くその中へと沈み込んだ。それを見届けた後、クリスはくいくいと杖を軽く引き、二枚の羽から伸びた輝く帯が、何かに引っ掛かるようにぴんと張るのを確認してから、彼の行動を観察していた貴方のほうへと顔を上げる。

「こちらの準備は整ったよ。『核』を今から外へと引きずり出すが、君の準備は宜しいか?」

 問いに、貴方は己が武器を手にとり構える事で返事とする。

「──ならば、行くぞ」

 その言葉と共に、クリスは手にした長杖を勢い良く引っ張り上げた。





──その世界は──


 どぷん、と。

 書の表紙がまるで水面であるかのような波紋を描き、その中心から二つの影がこちらの世界へと呼び出された。

 影の一つは大きく、影の一つは小さい。

 大きな影は小さな影を覆うように広がり、小さな影は大きな影に護られながらその身を起こす。

 大きな影は純然たる影──黒の単色で構築された平面のうねりであるのに対して、小さな影は単なる幼い少女の人影だ。

 少女が中空に立つと同時に、地に置かれていた書ががくがくと揺れて浮かび上がり、その頁をばらばらと開く。たなびく白色の紙束の隙間からは瞬く間に影色の力が広がり、少女に絡み付いていた輝く帯を瞬く間に切り払った。

「この子が……?」

 少し距離を取った場所で両手を広げ、結界を維持しているエウセニッティの呟きが耳に届く。

 眼の前に現れた少女は、何度か見覚えがあった。アグナ・スネフで影を追っている時に一度。そしてあの位相の都の邸宅でもう一度。遭遇した時の状況などから『力ある書』に関わる者であるとは思っていたが、成程。彼女がクリスやエウセニッティの言っていた『力ある書の読み手』であったという事か。

 貴方が警戒の視線を向ける中。真下に広がった書物から風でも吹き上がっているのか、渦を巻くように揺れる長髪を抑える事もせず、空中に浮ぶその少女は閉じていた目を薄っすらと開く。


『──わたしが──から──る』


 同時、風が吹いた。

 少女を中心として八方に広がった爆風は、すぐ傍に居た貴方とクリスに叩きつけられる。

「……ッ!!」

 その勢いはかなりのもの。影の色が混じったその風に打たれて、貴方は数メートル程吹き飛ばされた。何とか転倒する事だけは回避し、片膝のまま顔を上げる。

 覗いた瞳の色は鈍い黄金。その焦点は直ぐ眼の前に立つクリスや貴方、少し離れた位置に居るエウセニッティに合わさる事無く、ただ虚ろに、何も見えていないかのように不安定に揺れる。罅割れた唇からは何事かの呟きが漏れたが、大気を介さず周囲に響くもその言葉の内容はぶつ切りで判然とせず、誰かに何かを伝えるという意味よりも、ふとした拍子で身の内より零れ出た独り言のように感じられる。

「……成程ね。本が持つ『物語』と同調しすぎて、『読み手』が自身を失ってしまっているパターンか」

 その呟きは直ぐ傍から聞こえた。先程の風で、態勢は崩さずとも貴方と同じ位置にまで押し飛ばされていたクリスは、とんとんと手にした杖を己の肩を叩きつつ、しかし視線は今は多少の距離が開いた少女の方から外す事無く言葉を紡ぐ。

「さて、ここからは君に任せる事になるけど、何をすれば良いか判るかな」

 引っ張り出した『核』と戦え、とまでしか聞いていないが──相手がああいう幼い少女となると酷くやりづらいのだが。

 顰め面で呟く貴方に、クリスは「確かにね」と苦笑する。

「でも、今眼の前にあるあの子は実体じゃない。あの子の姿をした部分が『核』に取り付いた彼女の存在概念部分。廻りに漂う影が『力ある書』自体の存在概念部分を示している。僕は出来うる限り『力ある書』の持つ力を抑えるから、その間に上手くあの子をとっちめてやってくれ。ある程度攻撃が入れば、概念的な繋がりに揺らぎが出てくる筈だから。実体じゃないから少々無茶をしても構わない。寧ろ、無茶しないと返り討ちにされる程だ。油断は禁物だよ」

 口早に言って、クリスは一歩前へ。そして双蛇の杖を大きく横へと振り、そして一度引いてから前へと突き出した。

 瞬間、少女を護るように踊っていた影の気配が怯えるように退き、空中を浮んでいた少女が眼を見開く。


『そこに──るの? ──たは、誰──?』


 少女の身体が強張り、不確かに揺れていた瞳がゆっくりとこちらに向けられる。焦点はいまだ合わず、こちらを素通りするような視線ではあったが、先程までとは違い、『自分達に害意を持つ何か』が傍に居る事を彼女は察したようだ。


『──嫌──しは──捨て──い』


 じりじりという耳障りな音と共に、一度は竦んだ影がざわざわと行動を再開する。少女の髪がうねる様に舞い、その合間から別の黒い影が漏れ出して朧な一つの人影を作る。それは以前遭遇した影の少年に良く似た姿を持ち、彼は背負った大弓をゆっくりと構える。

「不確かながらも『現身』すら操るか。『読み手』としての素質は凄まじいが……」

 放たれた大弓の一撃を、貴方は横へと飛ぶことで、クリスは杖で払う事で回避。そのまま飛んだ勢いを殺さずに走り、貴方は手にした武器を少女へと向ける。

 だが、

「っ!?」

 放った一撃に絡みつくのは少女の周りを漂う影。瞬く間に勢いが削り取られ、少女の身体に至る事すら出来ない。

 驚愕に固まった貴方に、少女の背後に生まれた影が再度大弓を引く。至近距離から放たれた一射を強引に飛び退いて回避した。

「影の動きが完全に抑えられていないか──【NAME】、今から五拍後! タイミングを合わせろ!」

 後方からのクリスの叫び。一瞬だけそちらに視線を向ければ、杖を水平に構えて両目を閉じ、精神集中状態に入る姿が見えた。何か大技でも仕掛けるつもりか。

 五拍ならば上手く合わせれば儀式技法を重ねられる筈。人影からの更なる弓の一撃を何とか凌ぎながら、貴方はその時を待つ。



battle
その世界は


『きらい、きらい!! 御爺様の──どうして、みんな──!」

 

 叫びと共に、力が弾けた。

 クリスの放った強力な封印術。それに合わせて放った貴方の一撃を受けて、少女の身体が大きく歪む。悲鳴交じりの少女の叫びは、眼の前に迫る脅威たる貴方ではなく、別のモノへと宛てた非難であった。

 だが、その事に対して意識を割く余裕など、貴方には一切無かった。

 ──轟、と。

 闇色の爆風が少女を起点として八方へと広がる。

 間近で炸裂した黒い圧力に貴方の身体は容易く吹き飛ばされ、凄まじい速度で横方向へと視界が滑った。

 辺りを包んでいた淡い色の壁、エウセニッティの形成していた障壁に当たって一度はその勢いを弱めたものの、更に放たれた爆風により、今度は障壁が撓み、亀裂が走り、そして砕けた。

「っ、嘘!?」

 エウセニッティの驚きの声が、荒れ狂う風の音の間から微かに届いた。彼女が形成していた結界の消滅により、周りの風景が元の図書館のモノへ戻っていく。飛び散った風が立ち並ぶ巨大な本棚とそこに収められた本を薙ぎ倒していく様を視界の端に収めつつ、貴方は何とか態勢を立て直そうとするも、無茶苦茶な風の流れに飲み込まれて上下の感覚すらもなくなってしまってはどうしようもない。その間にも視界は高速で横へと流れ──そして衝撃。

「か、っ」

 肺から息が零れる。視界が回転し、飛び散る無数の本が映る。立ち並んでいた本棚の一つにぶつかったのか。そんな僅かな思考すらも打ち消すように、身体を打つ更なる衝撃。跳ねた身体が別の本棚に埋まり、そこで漸く風に飛ばされた事によって生まれた勢いが完全に失せた。ずるり、と身体が下へと滑り、そして地面に落下する。

 やっと止まった。

 全身を苛む痛みを堪えつつも、そう安堵の吐息をつこうとした貴方は、真上から迫る気配に息を呑む。

「な──」

 一体何が、と反射的に見上げて絶句。貴方が激突した衝撃により棚から零れ落ち、今正に貴方の上へと落下しようとする大量の本の姿があった。

「わああああああああああああ」

 という叫びすらも、雪崩の如く押し寄せてくる本の音に掻き消された。



 少女の放った影色の爆風は合計三発。最後の一発を弾けさせた後に残ったのは、興奮した様子のまま両肩を抱いて立ち尽くす少女と、彼女を覆うように漂う黒の影。そして、双頭の蛇の杖を携えた金髪の青年と黒髪の娘のみだった。

「派手に吹き飛んでいったが、大丈夫かな」

「それも心配ですけれど……ああ……本が……本棚が……掃除が……」

「エニィはもう少し結界の力加減を勉強した方がいいかもね。茨辺りはその辺上手いから、訊ねてみれば良い助言が──」

「…………」

「……いや、まぁ、その辺りの事は後回しにするとして」

 青年は視線を遠く、弾けた風によって派手に倒れた本棚の群れから、近くの少女の方へと向ける。


「読んでくれた──大切──危なくなんか──あの子が──」


 響く声は、以前の頭に直接響いてくるようなモノではなく、しっかりと大気を介して届く肉声。届く声音は小さく、何を言っているのかはやはり判然としない。

「まぁ、【NAME】が頑張ってくれたお陰で、大分あの娘もこちら側に戻ってきたね。『力ある書』の方もかなり消耗したみたいだし」

 ひゅん、と手にした杖を回してその先端。両の蛇の顎を、揺れる少女と影へと向ける。

「そろそろ頃合か。では、覚悟するといい」

 告げて、クリスは朗々と声を張る。


 

「古き英知を示す蛇。ケリュケイオンが描くは断路。

 絆を斬り、糸を斬り、結びを斬る。

 全て断ち斬るは杖ある翼。其は何者も除く力なり」

 


 が、と杖の先端から顔を出す蛇の装飾に命が宿る。

 脇より伸びた一対の翼が大きく広がり、その羽の間から噴き出す力の奔流が、渦を巻いて杖とクリスを包み込んだ。


 

「二つが蛇の標す道筋、遮る言葉は我が舌の上。

 手が先にて翼生み、踝が脇にて翼生み、汝と汝を阻みて拒む。

 囁かれる詩は孤独の証。双なる蛇、永久に絡むる事は無し。

 故に見よ──」

 


 クリスが言葉を紡ぐごとに、手にした杖が纏う力が増していく。

 危険を感じたのか、少女の背に浮ぶ影が初めてその場所から離れる。影色の少年は腰に佩いた長剣を引き抜き、杖に力を貯める事に集中しているクリスを両断しようと迫って、

「させません」

 脇から飛び込んできた黒髪の娘が放った拳が、少年の身体を撃つ。一撃目が剣を持つ手を穿ち、二撃目が胴の中心を貫く。砕けていく影を見届けてから、エウセニッティは大きく横へと身を滑らせた。

 それを見届けてから、クリスは先端の二匹の蛇に集中した膨大な量の力を押さえ込み、制御し、杖を担ぐように構えて、


 

「今、顕現せしむるは、我が縁断つ力!

 

 ──歪みし契約よ、疾く失せよ!」

 


 炸裂する大閃光。

 振りぬかれた杖の先端から伸びた光の大帯が、力を失い殆ど動きを失っていた影と少女の姿を問答無用で飲み込んで、エントランスを白の一色で塗り潰す。

 そして光が爆発して消滅した後には、確かな実体を持った一人の少女が、古ぼけた本をぎゅっと強く抱え込んだまま眠っていた。

「これで一段落、かな」

 ふー、と長く息を付き、クリスは杖に纏わり付く力の欠片を払うように軽く振った。

「エニィ、どうだい?」

「身体的にも概念的にも損傷はありません。意識を失っているだけです。『力ある書』との繋がりも──大部分は断たれています」

「大部分?」

 倒れている少女の傍に座り、その状態を確かめていたエウセニッティの返事に、クリスははてと首を傾げる。

「凄いな。確かに、まだ縁が完全に切れていない。かなり激しくやったつもりなんだが」

 ケリュケイオンの力を利用した全断の技。その直撃を受けたというのに、その繋がりを断つ事が出来なかった。それは長く『力ある書』に関わってきたクリスにもそう出くわした事の無い状況だった。

「この子の『読み手』としての潜在的な才能もあるんでしょうけれど──お互い、余程離れたくなかったんでしょうね」

「…………」

「クリス?」

 返答の無いクリスに、エウセニッティが怪訝な顔で振り返る。クリスは思案げに己の顎を軽く撫でて、視線は虚空。とんとんと人差し指を二度振って、そしてクリスは独り言のようにこう呟いた。

「少し、勿体無いかもね。……考えてみるべきかな」



 本の山から漸く這い出した貴方が見たのは、先程の爆風に寄り粗方滅茶苦茶になったエントランスと、本と少女を抱いて難しい顔で立ち尽くす二人の姿。身体についた埃を払いつつ彼等に近づくと、貴方に気づいたかクリスとエウセニッティは同時に振り返る。

「【NAME】様。ご無事でしたか」

 無事、といえば無事か。エウセニッティの問いに、貴方は身体の具合を確かめるように動かしつつ答える。

 それよりも、結局どうなったのか?

「見ての通りだよ」

 クリスは腕に抱いた少女を貴方に見せるように体を移す。

 少女の方は先程の半ば幻のようであった身体ではなく、しっかりと実体を持った、ごく普通の人間に見える。どうやら自分が吹き飛ばされた後、クリスは上手く『核』を処理してくれたらしい。

 ──取り敢えず、これで一件落着という事で良いんだろうか?

「まぁ、事件自体は片付いたって流れでいいんだけど」

 クリスは複雑な顔で、辺りをぐるりと見渡す。

 彼の視線に沿って貴方も視界を巡らせれば、広がるのは倒れ伏した巨大な本棚の群れと、そこから零れ落ち、広がり、山となった書物の姿だった。

「しかしまぁ、無茶苦茶になったもんだね」

「ですねぇ。片付けにどれだけかかるか判りませんよ、これ」

 苦笑するクリスと、彼女には珍しく酷く情けない表情で溜息をつくエウセニッティ。

「で、【NAME】。提案なんだが、この状況を打破する為の救世主として整理の手伝いを──」

 しません。

「……ま、そうだよねぇ」

 一言で拒絶されてもクリスは笑みを変えぬまま、彼は片手だけで器用に少女を抱え直すと、空いた手を自身の懐に突っ込み、そこから取り出した何かをひょいと貴方の方へと放り投げる。

「?」

 小さな粒のようなもの。僅かな輝きを反射させつつ飛んできたそれを反射的に受け止めた貴方は、握り締めた硬質の粒が、掌の中で音も無く溶けて、身体に染みていくのを感じて驚きに硬直した。

 そんな貴方の様子を見て、クリスは笑みを濃くする。

「大丈夫。害のあるものじゃないよ。今投げたのが、君に対する報酬だ。どうだろう、少し自分の感覚が広がったような気がしないか?」

 どう、だろうか?

 粒を受け取った手を開いたり閉じたりを繰り返してみたものの、確かな実感のようなものは無いのだが。

「ま、自分の力が限界に達した時にはっきりと感じられるよ。常の人よりも少しだけ、その枠が大きくなっている筈だからね。ついでに、ここの船へのフリーパスも混ぜておいたから、次からは案内も無く確実にここに来る事ができるよ。良かったね」

 良かったのかなぁ、それ。

 首を傾げて小さく呟くが、あまりごねると片付けの手伝いを強要されかねない。ここは押さずに退くべき場面。さっさと御暇するとしよう。

「ま、気が向いたらまた来るといいよ。その時は歓迎しよう。……片付けが終わっていたら、ね」

 笑みと共に手を振るクリスと、無言のまま小さく一礼するエウセニッティに見送られ、貴方は乱雑に築かれた本の山脈から背を向けた。



「…………」

 塔を離れて暫く。アグナ・スネフの都に向けて歩を進める途中で、貴方はふと一つ訊ね忘れていた事を思い出す。

 それはクリスの腕の中で眠っていた、あの少女の事。

 結局『力ある書』と彼女との関係や、細かい顛末等を全く聞かずにあの場を後にしてしまったが……。

「──まぁ、良いか」

 事件としては既に解決してしまった事。いちいち穿り返すような部分でもない気もする。

 いつか又あの塔へ訪れる機会があって、そこで何か話を向ける切っ掛けでもあったなら、その時に訊いてみる事にしよう。

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